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<title>佐々木一郎の極意学的オブジェクティビズム考</title>
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<description>アイン・ランドの作品・思想を、高岡英夫の理論を援用して論じる</description>
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<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_544b.html">
<title>アイン・ランド代表作の邦訳刊行が象徴すること</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_544b.html</link>
<description>　アメリカでは、すでに60年にわたって大きな影響力を持ち続けているアイン・ランド...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　アメリカでは、すでに60年にわたって大きな影響力を持ち続けているアイン・ランドの作品も、日本では、最近までまったくと言ってよいほど注目されず、翻訳さえされてきませんでした。その代表作が長大で、また高度に知的であるため、読解自体が困難だったことも、その原因の1つでしょう（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）。しかし最大の原因は、個人の能力と自立を厳しく要求するその思想が、これまでの日本の精神風土では、受け入れられ得なかったことにあると考えられます（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　しかしついに、2004年、この日本でも、ランドの代表作である『The Fountainhead（水源）』と『Atlas Shrugged（肩をすくめるアトラス）』が、相次いで翻訳され出版されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この国で半世紀以上にわたり、言葉の壁の向こうに放置され、顧みられることもなかった思想家に、この21世紀初頭、ようやく邦訳出版という形で光が当てられたのには、何らかの歴史的な必然性があったと見ることができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高岡英夫は、1995年の著書『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』で、明治維新以降退化の一途を辿ってきた日本人の本質的能力が、西暦2000年前後に最下点に達し、21世紀初頭には上昇への道を歩み出すと予言し（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）、イチロー、武豊、羽生善治などの天才たちの登場を、その前兆として示唆しました（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私は、後世、国民全体の本質的能力の水準いかんという観点から、日本の歴史を100年単位で振り返ったとき、2004年におけるランド代表作の邦訳刊行は、1990年前後におけるイチロー、武豊、羽生善治などの天才たちの登場に、勝るとも劣らぬ象徴性を持つ出来事として、位置づけられると信じています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　すでに個人レベルでの本質力向上に目覚め始めた日本人は、向上した自己の本質力にふさわしい社会観、倫理観、人生観を、求めずにはいられなくなるでしょう（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。ランドの作品は、こうした強い個人にふさわしい社会観、倫理観、人生観を求める日本人の要求に応えるべく、邦訳刊行されたと見なすことができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高岡が予言したように退化の歴史を終え、進化の歴史を歩み始めた日本人は、ランドが思い描いた理想を、ランドの思想を重要な指針の一つとしながら、わずかずつでも体現していくことと、私は期待しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　評論家の副島隆彦氏は、ランドを日本で初めて一般読者向けに紹介した著書、『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』で、日本でランドが論じられてこなかった理由について、次のように述べています。&lt;br /&gt;
《彼女〔ランド〕の小説で最もアメリカ国民に親しまれているのは、『ファウンテンヘッド』であり、今でも、アメリカの多少とも知的な大学生であれば、この本は必読書である。どうして、未だに日本の知識人で誰ひとりとしてアイン・ランドを論じるものがいないのか、不思議である。要するに英語力がないのだろう。》（副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』1999年、講談社α文庫、p.294、原著は『現代アメリカ政治思想の大研究―「世界覇権国」を動かす政治家と知識人たち』1995年、筑摩書房）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　『水源』翻訳者の藤森かよこ氏は、ランドが受容されずにきた日本の精神風土について、次のように考察しています。&lt;br /&gt;
《敗戦後の日本の知識人のメイン・ストリームは、岩波書店に代表される「文化左翼」もしくは「心情文化左翼」だった。読書を習慣とする高学歴の日本人は，その戦後の知的風土に育まれて，多かれ少なかれ，社会主義国家への肯定的な幻想と反米／嫌米／反資本主義的心情をつちかって来た。その心情左翼風土は、1990年代初期あたりまでは濃厚であった。冷戦終結後、ソ連や中国などの共産圏に対する美化、ロマン化傾向は小さくなったが、左翼的心情は依然としてアカデミズムの中に色濃く残っている。こうした従来の知的風土において、ランドの小説や思想は、アメリカの極右的言説として、読まれる価値のないものとして処理されたのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　冷戦期の国民作家らしく、名門士官学校ウェストポイントの卒業式祝辞を依頼されたこともあるランドには、保守、右翼、タカ派というイメージがつきまとってきた。日本人には，ランドはあまりにも政治的な作家であったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、ランドの思想は、戦後日本の知的風土ともあいいれないと同時に，日本人の伝統的精神風土ともあいいれない。日本の政治／経済体制が，資本主義の顔をした社会主義／共産主義であることは、多くの研究者によって指摘されてきた。と同時に、日本にモダニズムが根づいていないこと、国民に真の近代的精神が内面化されてきていないことも、よく指摘されてきた。『水源』の主人公ハワード・ロークやドミニクや、ロークの周りに集まる男たちの関係と、彼らや彼女が生きる姿勢は、ふやけた共依存と曖昧な自己韜晦（じことうかい）を愛と呼び、助けあいと呼び、優しさとか癒しと呼ぶ日本人には、清冽（せいれつ）で苛烈に過ぎる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、「自らが自らの力で為すこと＝仕事を通してしか人間は、人間としての生を充填できないし、そこにしか尊厳がない」という徹底した現実的な有能さによって自らの価値を判断するプラグマティックな資本主義的精神の潔さというものは、日本人には「冷たく」「計算高く」思えてしまうのだ。これほどに世界と他者に優しい行為、心的態度もありえないのに。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　アメリカの草の根の国民の倫理と美意識（＝人間はいかに生きるべきか）の形成と維持に大きく関与してきた小説を書き、60年代に「客観主義運動」（Objectivism Movement）という一大ブーム（公民権運動ばかりがアメリカの60年代ではない）の中心となったアメリカ国民作家、大衆思想家アイン・ランドを知らないできたこと、読まなかったことは，日本人のアメリカ理解に大きな空白を残して来た。アメリカの高校生や大学生は、ランドの小説を通過して社会に挑んでいく。彼女の小説を通過した人間たちに、負け犬の遠吠え的哀愁に満ちたブンガクや世界の中心でウロウロと過去にこだわるようなひ弱な物語しか通過していない人間が、太刀打ちできるはずがないのだ。》（ウェブサイト&lt;a href=&quot;http://www.aynrand2001japan.com/index1.html &quot;&gt;「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」&lt;/a&gt;&gt;「論文」&gt;「アイン・ランド『水源』----もうひとつの訳者あとがき」&gt;「日本人にとってのアイン・ランド」、2004年）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　《実は筆者は、日本人のディレクト・システムの退化の歴史が、西暦二〇〇〇年前後に極、つまり最下点を迎えると、考えているのである。百数十年続いた退化の振り子が振り切れ、二十一世紀初頭には“進化”の振り戻しの時代が来ると、予測しているのである。》（高岡英夫『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』1995年、講談社、p.249）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　《Ｕ「江戸時代か……環境問題・資源問題という観点で見ると、江戸時代というのは極めて素晴らしい社会だったそうだな。自然に調和し、自然的な生産力を最大限に活かす、例えばリサイクルのシステムなどは、大変に見事なものだったらしい。」&lt;br /&gt;
Ｍ「世界的に見ても最大級の都市であったにもかかわらず、江戸というのはゴミ一つない、世界で最も美しく、清潔な都市だった。同じ時代のロンドン、パリなど、今日からは想像出来ないほど、ゴミと汚物にまみれた不衛生な都市だった。ヨーロッパ社会の疫病の流行はこうした都市環境にも、大いに関係しているわけだ。&lt;br /&gt;
　この点だけを取り上げてみても、江戸時代が余程優れた人々の能力で支えられていたことは、想像に難くないな。」&lt;br /&gt;
Ａ「環境・資源・衛生問題と文化・学術と個人の身体運動能力とが、見事な調和をなしていたのではないかな。例えば歌舞伎の美しさや浮世絵の芸術性は、ゴミと汚物にまみれた街を平気で歩くような個人を成員とする社会からは、生まれ得なかったのではないかな。」&lt;br /&gt;
Ｋ「今の話を聞いていて、何かディレクト・システムというのが、個人だけでなく、社会全体にわたる、その在り様を規定する、根本的システムの一つとして、見えて来たな。」&lt;br /&gt;
Ａ「極めて感覚的な発言なのだが……、ジンブレイドというのは、ある種の美意識のようなものでもあるのじゃないのか。」&lt;br /&gt;
Ｍ「そう、イチローの持っている何とも説明し難い“あの感じ”と、紙と木と水と土で構成された、環境に優しく、資源を大切にし、衛生的にも美しい社会の“感じ”というのが、すごく共通しているように思うんだな。」&lt;br /&gt;
Ｕ「それは“端然たる美”という感じか……。」&lt;br /&gt;
Ｍ「そう、端然、颯爽、優美、親和、静穏、精微……そして透明、純朴、という感じかな。」&lt;br /&gt;
Ａ「実に、素晴らしいネ。」&lt;br /&gt;
Ｕ「何かが、見えてきた気がする……。」&lt;br /&gt;
Ｋ「ジンブレイドが個人の運動能力だけでなく、社会の美意識にまで達するものだとすると、前に雑誌で読んだスキーのステンマルクの事を思い出すな。」&lt;br /&gt;
Ｕ「どういう事だい？」&lt;br /&gt;
Ｋ「彼はチームの中で誰よりも早くトレーニングに出て、皆が終えて帰った後も黙々と練習をし、最後に帰って来るのだが、帰って来たのが分からない程、静かだったそうなんだよ。」&lt;br /&gt;
Ｕ「スキーの練習から帰って来たとなれば、板は長くて重いわ、ブーツはゴツゴツして重いわ、ストックはバラバラになるわ、グッタリと疲れているわで……、ガチャガチャゴトゴトと騒がしい事、この上ないものな。」&lt;br /&gt;
Ａ「ステンマルクは、ジンブレイドを持っていたんだよな。」&lt;br /&gt;
私「そうだ。」&lt;br /&gt;
Ｍ「これは、凄い話だ。」&lt;br /&gt;
Ｋ「スキーの板をコトリともさせない静穏・精微さと、雪山を風のごとく駆け抜ける端然・颯爽は、いずれもジンブレイドのなせる業だったのかも知れない……。」&lt;br /&gt;
Ｕ「このディレクターが、今日の社会では消滅して久しく、稀に持つことのできた個人は、天才・名人・達人として扱われるわけか……。」&lt;br /&gt;
Ｍ「今日世界的、人類的最重要の課題である環境・資源・人口問題も、この話からすれば、個人個人のディレクト・システムが良いものに変化しない限りは、決して解決の方向に向かわない、ということになるな。」&lt;br /&gt;
Ａ「そのディレクト・システムの鍵が、ジンブレイドであるということだな。」&lt;br /&gt;
Ｕ「しかし、イチローが地球環境問題を解く“鍵”だったとはなあ……。」&lt;br /&gt;
Ａ「やっぱりイチローは、天才だろう。」&lt;br /&gt;
Ｕ「いや、江戸時代にはいくらでもゴロゴロいた存在なのだから、そうは思わない。だがしかし、やはり“神の子”であることは確かだろうな。」&lt;br /&gt;
Ｋ「地球の行く末を案じた天の使い、ということか。」&lt;br /&gt;
私「イチロー、武豊、羽生善治……とくると、稀なはずのジンブレイドの担い手が突然揃いも揃って出現したという事に、やはり大きな時代の変化の兆〔きざし〕を見なければならないのかも知れないな。」》（『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』、p.63～66）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　時代の転換期には、社会観、倫理観、人生観に対する爆発的な需要が発生します。言語学者・社会評論家の三浦つとむ（みうら　つとむ、1911～1989年）は、第二次世界大戦敗戦後の日本における哲学ブームについて、次のように考察しています。&lt;br /&gt;
《人間の生きる目的は何かとか、人生をいかに生きるべきかとか、大きな目的意識や大きな生活態度について自覚しなくても、日常生活をすすめていくことはできる。しかしこれらを自覚して正しい目的を確立し正しい生活態度を打ちたてていないかぎり、日常生活の目的や行動の正しい位置づけや一貫した価値判断は生れてこないし、困難や障害をのりこえて目的をつらぬこうとする情熱や強固な観念的原動力をつくりだすこともむずかしい。徹底した教育によって正しいものと信じこんでいたこれまでの目的意識や価値判断が、敗戦によって一挙にあやまっていたと知らされたときの日本人は、それに代るものを求め精神構造の空洞を埋めようとして、哲学へ走った。哲学書に対する爆発的な要求が起って、専門家にすら難解と定評のある西田哲学の書物がベストセラーになり、またスターリンの弁証法的唯物論と史的唯物論のパンフレットや哲学教科書や解説書などがとぶように売れて、進歩的な出版社を大いにうるおしたのであった。&lt;br /&gt;
〔中略〕&lt;br /&gt;
　大衆は、哲学的教養を身につけるために哲学書を要求したのでもなければ、小哲学者になろうとして哲学書を求めたのでもなかった。大衆は新しい時代における人生の指針を求め、人間として正しく生きるためのよりどころを求めたのである。哲学書を人生論として読もうとしたのである。人生論ときくと、知識人は冷笑する。たしかに、人生論と名のって書店に売られているものの大部分は、観念論哲学者や評論家や文学者の手になる評論や随筆で、社会科学的な分析に堪えられないひよわいものでしかないけれども、だからといって人生論は有効性がないとか社会科学になりえないとかいうことにはならない。むしろ反対に、社会科学を正しくふまえた具体的な人生論が建設され大衆化されていないからこそ、これらのひよわい随筆的人生論が美文の魅力によって大衆をとらえるのである。》（三浦つとむ『指導者の理論』1960年、勁草書房、p.22～24）&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アイン・ランドについて</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-10-16T23:37:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_3d88.html">
<title>『水源』冒頭を原文で読む</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_3d88.html</link>
<description>　ここからしばらくは、アイン・ランドの作品を実際に読んでいきます。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　ここからしばらくは、アイン・ランドの作品を実際に読んでいきます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　The Ayn Rand Institute（&lt;a href=&quot;#note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;）のウェブサイトに、ランドの代表作の冒頭部分が掲載されていますので、まずはこれらを原文で読んでみましょう。『The Fountainhead（水源）』の方からいきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　英文を読み慣れていない人にも楽しんでもらうため、というよりむしろ、私自身がランドの文一つ一つについてあれこれ書きたいがために、1回にせいぜい1～2文程度のペースで進めていくつもりです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;　ランドの思想（＝オブジェクティビズム）の普及・振興活動をしているアメリカのNPO。URLは&lt;a href=&quot;http://www.aynrand.org/&quot;&gt;http://www.aynrand.org/&lt;/a&gt;。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-10-23T23:55:12+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_1021.html">
<title>パートタイトル</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/10/post_1021.html</link>
<description>《Part One PETER KEATING》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《Part One&lt;br /&gt;
PETER KEATING》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　パートタイトルからいきます。「第一部　ピーター・キーティング」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『水源』は全体が4部で構成され、各パートのタイトルが、それぞれ次のように、登場人物の名前になっています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;Part One&lt;br /&gt;
PETER KEATING&lt;br /&gt;
〔第一部　ピーター・キーティング〕&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Part Two&lt;br /&gt;
ELLSWORTH M. TOOHEY&lt;br /&gt;
〔第二部　エルスワース・トゥーイー〕&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Part Three&lt;br /&gt;
GAIL WYNAND&lt;br /&gt;
〔第三部　ゲイル・ワイナンド〕&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Part Four&lt;br /&gt;
HOWARD ROARK&lt;br /&gt;
〔第四部　ハワード・ローク〕&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　最後のハワード・ロークが、この小説の主人公です。他の3人は、主人公にいわば敵対する形で登場する男たちです（「敵対」と言い切れるほど単純でもないのですが）。&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;4人の男たちの素描&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ハワード・ローク‥‥建築家志望の若者です。苦学して名門スタントン工科大学に入学するものの、建築観を巡って教授たちと対立し、退学になります。理想の建築を追求する、自立自尊の人物です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ピーター・キーティング‥‥ロークが下宿する家の息子で、ロークと同じスタントン工科大学の学生です。キャンパスの人気者で、ロークの退学が決まった日、ロークのアイデアを借用しただけの課題のおかげで、スタントン工科大学を首席で卒業します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　エルスワース・トゥーイー‥‥建築評論界の権威であり、新聞のコラムで大衆への尊敬と奉仕を説く、オピニオン・リーダーでもあります。内に秘めたある目的のため、建築界、芸術界、財界、労働界などに、自分の意のままになるネットワークを張り巡らせます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ゲイル・ワイナンド‥‥スラム街から這い上がった、巨大ビジネスグループの支配者です。大新聞の社主として俗悪な新聞を全米規模で発行し、高潔な人物を見ると、財力と権力に物を言わせて破滅させます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;『レ・ミゼラブル』の影響？&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　主要人物の名前を並べていき、主人公の名前で最後を締める、というパートタイトルの付け方を見て、私は、ヴィクトル・ユーゴー（Victor Hugo、 1802～1885年）の『レ・ミゼラブル』を思い出しました。『レ・ミゼラブル』のパートタイトルは、次のように付けられています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「第一部　ファンティーヌ」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「第二部　コゼット」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「第三部　マリユス」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「第四部　叙情詩と叙事詩」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「第五部　ジャン・ヴァルジャン」&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　『水源』にしても『レ・ミゼラブル』にしても、読む前に目次でこれらのパートタイトルを見ても、何の想像も感情も湧くものではありません。なにしろただの（しかも私たちにとっては外国の）人名ですから。それが読み進めていき、最後のパートの入口でこれら主人公の名を目にすると、単に物語がクライマックスを迎える期待に胸踊らされるだけでなく、主人公の名によって象徴されてきた精神が、いよいよ可能性から現実性へと転化する予感に、期待や興奮にとどまらない、ある種重苦しく厳粛な思いが胸に去来します。読了後に改めてこれらのパートタイトルを眺め渡したとき、各人物の名前は、物語の本質を担う対立項の、象徴としての姿を浮かび上がらせます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;　私は小説などの文学作品をあまり読まないので、このように登場人物の名前をパートタイトルにする手法が、『レ・ミゼラブル』に起源を持つものなのかどうかわかりません。しかしランドが、作家の中ではユーゴーを最も尊敬していたことは確かなようです（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。『水源』のパートタイトルは、『レ・ミゼラブル』を意識して付けられたものと、私は勝手に推測しています（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;概念の展開としてのパートタイトル&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『レ・ミゼラブル』のパートタイトルの展開には、ドラマ性はあっても思想性はありません。『水源』のパートタイトルの展開には、ドラマ性があると同時に思想性があります。小説の形式で書かれた思想書とでも言うべき『水源』において、登場人物たちは、それぞれが「生きた概念」としての役割を担っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『水源』読了後に、ピーター・キーティング⇒エルスワース・トゥーイー⇒ゲイル・ワイナンド⇒ハワード・ロークという展開を眺めると、それだけで、明確な構造を持った一つの思想が浮かび上がります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　概念としての&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　ピーター・キーティング／エルスワース・トゥーイー／ゲイル・ワイナンド／ハワード・ローク&lt;/blockquote&gt;の関係は、&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;｛ピーター・キーティング／エルスワース・トゥーイー／ゲイル・ワイナンド｝／ハワード・ローク&lt;/blockquote&gt;という関係であると同時に、&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;｛ピーター・キーティング／エルスワース・トゥーイー｝／｛ゲイル・ワイナンド／ハワード・ローク｝&lt;/blockquote&gt;という関係でもあり、またある意味&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;｛ピーター・キーティング｝／｛エルスワース・トゥーイー／ゲイル・ワイナンド／ハワード・ローク｝&lt;/blockquote&gt;という関係でもありながら、結局は&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;｛ピーター・キーティング｝／｛エルスワース・トゥーイー｝／｛ゲイル・ワイナンド｝／｛ハワード・ローク｝&lt;/blockquote&gt;という関係である、ということが、看取されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　《Thoroughly opposed to the mysticism and collectivism of Russian culture, she thought of herself as a European writer, especially after encountering authors such as Walter Scott and -- in 1918 -- Victor Hugo, the writer she most admired.》（『The Fountainhead』ペーパーバック版巻末の「ABOUT AYN RAND」より）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　豊島与志雄氏訳の『レ・ミゼラブル』は、私が今まで読んだ中で、最も感銘を受けた小説の一つです。ランドの作品を読んで以来、私はごく自然に、『レ・ミゼラブル』の世界を、ランドの思想に照らして反芻していました。これは、ランドがユーゴーを尊敬していたと知る以前からです。そうして、『レ・ミゼラブル』のような世界は、ランドの立場からすると軽蔑の対象なのだろうか、とか、ジャン・ヴァルジャンの振る舞いも、コゼット本人からすればうっとうしいだけなのかも、などと想像していました。それだけに、ランドがユーゴーを尊敬していたと知ったときは、嬉しい気持ちになりました。利己主義の唱道者として知られるランドが攻撃している利他主義とは、利他の名の下にまかり通っている偽善や悲劇なのであって、利他主義が持つ美徳は、ランドの思想の中で、形を変えて保存されているのだということを、改めて確認できたからです。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-10-30T17:18:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/111_07a9.html">
<title>第1節、第1段落</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/111_07a9.html</link>
<description>《HOWARD ROARK laughed.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《HOWARD ROARK laughed.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;ハワード・ロークは笑った。&lt;/strong&gt;」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;達人は笑う&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　やはり達人は笑うようです（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　アイン・ランドは、『水源』の主人公ハワード・ロークを、人間の理想像として描きました（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。ランドにとっての究極の人間像であるハワード・ロークは、高岡英夫が説く「究極の身体」の持ち主（天才・達人）の特徴を、随所で見せます。その一つが、逆境にあっても失われない、本質的な意味での明るさです（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この日ロークは、名門スタントン工科大学（架空の大学名ですが、日本で言えば東京大学工学部といったところでしょう）を退学処分になりました。これは、建築界のエスタブリッシュメントへの道を絶たれるどころか、ほとんど建築界から追放されるにも等しい処分です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それでもロークは絶望に襲われることがありません。彼にとって、自分が建築家になることは自明のことであり、あるべき建築家になるために自分がなすべきことも、明らかだからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして笑うのです。空元気を出そうとしているわけではありません。あまりに当然なことを理解できない教授たちの振る舞いが、そしてより大きくは、彼が生きる社会のあり方自体が、滑稽で仕方ないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ロークの笑いは、自分と対象の中心を捉え、目標への道筋を感知し貫徹する彼の能力と、これらの能力に支えられた彼の本質的な明るさ、そして、彼の行く手を阻む障害の本質的な滑稽さを予感させる笑いです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;&lt;a name=&quot;shiten&quot;&gt;「笑い」による鑑賞者視点の空間的定位&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　笑いは、顔を中心に現象します。「ハワード・ロークは笑った。」という表現は、ロークの顔がちょうど視野に収まる視点に、鑑賞者を観念的に移行させます（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。これには二つの効果があります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一つ目は、読者にとってロークの肉体が身近になり、ロークの肉体を身体感覚で捉えやすくなることです。これにより、ロークの肉体に関する以後の描写が、より効果的になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　二つ目は、映像表現で言えば、カメラがロークの顔に近づき切ったところからスタートして、2文目以降ぐんぐん後に引くことにより、ダイナミックな映像的世界が展開されることです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;時の表現を伴わない過去時制による時間的定位&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　時の表現を伴わない過去時制は、出来事が起きた直後の世界に、鑑賞者を観念的に移行させます。たとえば「彼は昨日家に着いた」という表現は、彼が家に着いた翌日の世界に鑑賞者を移行させます。これに対して、「彼は家に着いた」という表現は、彼が家に着いた直後の世界に鑑賞者を移行させます（&lt;a href=&quot;#note6&quot;&gt;※6&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「ハワード・ロークは笑った。」という、時の表現を伴わない過去時制による表現は、ロークが今まさに笑った瞬間へと鑑賞者をトリップさせます。これもまた、ロークを、そして作品世界を、読者にビビッドに感じさせる表現手法です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;意表を突き続ける冒頭部&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小説の冒頭では、読者を物語の世界に引き込むため、さまざまな工夫が凝らされます。読者の意表を突くというのも、読者を引き込む効果的な方法の一つです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『水源』冒頭では、読者の意表を突く仕掛けが、これでもかこれでもかと繰り出されます。けっして、突飛な出来事が起こるのではありません。表現技術によって読者の意表を突くのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「第一部　ピーター・キーティング」と始めておいて、ピーター・キーティングではなくハワード・ロークが出てくるというのも、読者の予想の軽い裏切りです。誰だよそれ、しかも何笑ってんだよ、という感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　《塩田剛三氏もそうであったが、佐川幸義翁や王薌齋などの上級の達人を見ると、全身の細胞が常に笑ってる。この細胞が更に笑い転げると、相手が吹き飛び転げ回っている。達人とは全くおかしな人達なのだ。》（高岡英夫『極意と人間―極意学入門』2000年、BABジャパン、p.272）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　《The motive and purpose of my writing is &lt;em&gt;the projection of an ideal man&lt;/em&gt;. The portrayal of a moral ideal, as my ultimate goal, as an end itself -- to which any didactic, intellectual or philosophical values contained in a novel are only the means.&lt;br /&gt;
   Let me stress this: my purpose is &lt;em&gt;not&lt;/em&gt; the philosophical enlightenment of my readers, it is &lt;em&gt;not&lt;/em&gt; the beneficial influence which my novel may have on people, it is &lt;em&gt;not&lt;/em&gt; the fact that my novels may  help a reader&#39;s intellectual development. All these matters are important, but they are secondary considerations, they are merely consequences and effects, not first causes or prime movers. My purpose, first cause and prime mover is the portrayal of Howard Roark or John Galt or Hank Rearden or Francisco d&#39;Anconia &lt;em&gt;as an end in himself&lt;/em&gt; -- not as a means to any further end. Which, incidentally, is the greatest value I could ever offer a reader.》（Ayn Rand『The Romantic Manifesto』「11. The Goal of My Writing」Signet Books、p.162）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　《なにか困ったことが起きたとき、ふつうの人はああでもないこうでもないと思い悩み、捉われたくない思いに捉われつづけ、はたまたパニックになったり、胃が痛くなったりするものですが、“究極の身体”になると「困った」とか「たいへんだ」と思うことすらなくなってしまうのです。》（高岡英夫『『究極の身体』を読む　身体の中心はどこにあるのか』2003年、運動科学総合研究所、p.185）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　言語表現における立場の移行については、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』（1976年、講談社学術文庫）および同『認識と言語の理論』（1967年、勁草書房）を参照。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note6&quot;&gt;※6&lt;/a&gt;　時の表現には、「昨日」や「1941年12月8日」などの明示的なものだけでなく、黙示的なものも含まれます。「アインシュタインが言った」と表現したときには、「アインシュタイン」という固有名詞自体に、黙示的に時が表現されています。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-11-07T08:40:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/121_d8e2.html">
<title>第1節、第2段落、第1文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/121_d8e2.html</link>
<description>《He stood naked at the edge of a cliff.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《He stood naked at the edge of a cliff.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《He stood naked》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「stood」は、自動詞「stand」＝「立つ・立っている」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　動詞には、〈動作〉を表す動詞と〈状態〉を表す動詞があります。〈動作〉を表す動詞で〈状態〉を表現するときは、進行形（be動詞＋～ing）にします。「stand」は、「立つ」という〈動作〉と、「立っている」という〈状態〉の、どちらも表しますから、「立っていた」という〈状態〉は、過去形でも過去進行形でも表現できます。過去形を使うと、建物のようにずっと立っている感じで、過去進行形を使うと、一時的にそこに立っている感じです。ですから「He stood」は、大げさに訳すと「彼は屹立していた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「naked」は、「裸の」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　形容詞の用法には、限定用法と叙述用法があります。限定用法は、名詞の直前・直後から名詞を直接修飾する用法で、叙述用法は、動詞の補語になる用法です。補語は、自動詞の補語の場合は主語を説明し、他動詞の補語の場合は目的語を説明します。この「naked」は、「stood」という自動詞の補語ですので、主語「He」の状態を説明しています。「He stood naked」で、「彼は裸で屹立していた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;「stnad」は「ストーンと立つ」&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「stnad」と正しく発声してみると、日本語の擬態語「ストーンと」に、響きが似ていることに気付きます。ストーンと立つためには、脱力と〈センター〉が必要です（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。高岡英夫も、脱力と〈センター〉が効いた立ち方の表現に、「ストーンと」という擬態語を使用することがあります（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　英語を第一言語とする人々は、「stnad」という語を使うたびに、この語が持つ音の響きによって、無意識のうちに脱力と〈センター〉を喚起されているものと思われます。ハワード・ロークは、脱力と〈センター〉を効かせて、ストーンと立っていたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「stnad」を「立つ・立っている」と訳してしまうと、こうした擬態的側面が脱落してしまいます。かといって、文中でその都度「ストーンと立つ・立っている」と訳すのも奇妙です。ここにも一つ、翻訳の限界が存在します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《at the edge of a cliff》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「at」は、時や場所などの〈一点〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高岡は、凡人と達人の立ち方の違いを、「ブロンズ像的立ち方」と「曲技団的立ち方」の違いで説明することがあります。「ブロンズ像的立ち方」は、《足を開き、全身、特に身体の外側の筋肉に力を入れ、身体をブロンズ像のように固めて踏ん張って立つ》立ち方、「曲技団的立ち方」は、《中国の曲技団のように細い棒の上に足を乗せて立つ》立ち方です（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。当然、「曲技団的立ち方」の方が、〈センター〉の効いた達人の立ち方です。一点上に立つためには、〈センター〉が不可欠なのです。したがって「at」という前置詞は、ロークが立っている場所を示す語であると同時に、ロークの〈センター〉を表現する語であると言えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「edge」は、「端」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　端というのは、バランスを崩せば下に落ちてしまう場所です。したがって、そこに立つためにはより明確な〈センター〉が必要です。「edge」もまた、「at」をさらに強化する形で、ロークが立っている場所を示すと同時に、ロークの〈センター〉を表現していると言えます。「at」は〈一点〉を示す前置詞ですから、「at the edge」で「端っこギリギリ」という感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「cliff」は、「崖」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　崖っぷちギリギリに立つというのが、いかに恐ろしいことであるかは想像がつきます。その状態で平然としてるわけですから、「cliff」もまた、ロークの〈センター〉をさらに強烈に表現していると言えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a name=&quot;height&quot;&gt;この崖の高さは、明示されていません。&lt;/a&gt;しかし、後に説明するように、この崖はできるだけ巨大な存在である必要があります。かつ、この後ロークは、崖の下の湖に飛び込んで泳いでいきます。したがって、この崖の高さは、人間が飛び込める最大の高さと考えられます。水泳競技の高飛び込みで、公認の飛び込み台の高さは、5ｍ、7.5ｍ、10ｍの3種類ですので、この崖の高さは約10ｍと推測できます（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;&lt;a name=&quot;ratai&quot;&gt;裸体と絶壁&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　裸体は、着衣状態との対比で、文明に対する野蛮（または自然）の象徴とされる場合もあります。しかしロークの裸体は、野蛮の象徴ではありません。アイン・ランドにとって、「文明の行き過ぎを反省し未開人に学ぼう」などという思想は、軽蔑の対象でしかありません。ロークの裸体は、文明を進歩させる原動力としての、個人の生命力を象徴する裸体です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ロークの裸体は、同時に、崖とのコントラストを、より鮮明にするための裸体でもあります。肌と崖の、質感の対照は鮮烈です。こうして裸体と鮮烈に対照される崖とは、人間に対する自然の象徴です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一見、肌は弱さ、崖は強さの象徴にも感じられます。この強弱の対比は、この第2段落と次の第3段落で、大小の対比としても描かれていきます。そして、この強弱・大小の対比を極めた果てに、大どんでん返しが待っている、という構成になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さらに崖は、人間に対する自然の象徴であると同時に、ローク自身の象徴にもなっています。したがってこの崖は、この後、二重の象徴性を込めて描かれていくことになります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;語順にも意味がある&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第1段落では、「ハワード・ロークって誰だよ、しかも何笑ってんだよ」という感じで読者の意表を突きました。ここでは、「裸かよ！　端っこに立ってる‥‥&lt;strong&gt;って崖っぷちかよ！！&lt;/strong&gt;」という感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　映像表現で言えば、まずロークの顔が映り、裸の全身が映り、足元が映り、足元からはるか下まで続く崖が映り、最後にロークと崖の全体が映る、といったところでしょう。空間的規模が、顔（約30cm）→全身（約180cm）→崖（約10m）と、急激に拡大します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　原文は、《He &lt;strong&gt;&lt;u&gt;stoo&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;d &lt;strong&gt;&lt;u&gt;na&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ked at the &lt;strong&gt;&lt;u&gt;e&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;dge of a &lt;strong&gt;&lt;u&gt;cli&lt;/u&gt;&lt;/strong&gt;ff.》と4拍で発声されます（&lt;a href=&quot;#note6&quot;&gt;※6&lt;/a&gt;）。たった4拍でこれだけの認識運動が展開されるダイナミックさは、残念ながら日本語では表現できません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、日本語では、「彼は裸で崖っぷちに立っていた」という順序になってしまうのも問題です。「崖」は、最後に来なければ面白くないのです。このような場合は、1文を2文に訳し、2文を1文に訳すことで、ある程度面白さを再現できることがあります。ここでは、2文目の情報も取り入れながら、次のように訳すことができるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;彼は裸で屹立していた。足元の絶壁のはるか真下に、湖が広がっていた。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　〈センター〉は高岡英夫の概念で、《重力線とその延長線上に沿って形成された直線状の身体意識》です（高岡英夫『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます』2005年、ベースボール・マガジン社、p.46）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　《〔稲尾和久の写真へのキャプションで〕ストーンと地面に乗っていると同時にクシャッとした感じがするのは、ベストがあって肋骨が柔らかく使えているからだ。》（『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます』p.129）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　高岡英夫『丹田・肚・スタマック―自分の中の天才を呼びさます』（2005年、ベースボール・マガジン社）p.95。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　飛び込み台の高さは、ベースボール・マガジン社のサイト「&lt;a href=&quot;http://www.sportsclick.jp/swimming/facility/&quot;&gt;Sportsclick&lt;/a&gt;」を参照。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note6&quot;&gt;※6&lt;/a&gt;　The Ayn Rand Instituteのウェブサイトで、この部分の朗読を聴くことができます（「&lt;a href=&quot;http://www.aynrand.org/site/PageServer&quot;&gt;The Ayn Rand Institute&lt;/a&gt;」&gt;「Ayn Rand&#39;s Books &amp; Ideas」&gt;「Ayn Rand&#39;s Works」&gt;「&lt;a href=&quot;http://www.aynrand.org/site/PageServer?pagename=objectivism_fiction&quot;&gt;Ayn Rand&#39;s Fiction&lt;/a&gt;」で、「The Fountainhead」の「Listen to an audiobook excerpt from Chapter One.」をクリック）。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-11-19T00:39:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/122_60e7.html">
<title>第1節、第2段落、第2文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/122_60e7.html</link>
<description>《The lake lay far below him.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The lake lay far below him.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The lake lay》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「lake」は、「湖」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「lay」は、自動詞（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）「lie」＝「横たわる・横たわっている」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　絵画や映像には、表現者にとっての客体が表現されているだけでなく、潜在的に、表現者自身の視点の位置・視角・焦点も表現されています。表現者にとっての客体の表現は、〈客体（的）表現〉と呼ばれ、表現者自身の視点や立場などの表現は、〈主体（的）表現〉と呼ばれます（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。絵画や映像では、〈客体表現〉と〈主体表現〉が不可分に統一されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　絵画や映像におけるほど不可避的ではありませんが、言語表現においても、潜在的に、表現者自身の視点の位置・視角・焦点などが表現される場合があります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「lie」＝「横たわる・横たわっている」という動詞は、自分の視点より低い位置にあるものを、全体として捉えて表現するときに使用します。したがって、「lie」という動詞は、ものの在り方（＝横たわる動作や横たわっている状態）を示す〈客体表現〉であると同時に、表現者の視点の位置（＝客体より高い位置）と視角（＝客体を全体として眺める視角）を示す〈主体表現〉であると言えます。表現者の視点と視角を表現するということは、同時に、鑑賞者の視点と視角を規定するということでもあります。《The lake lay》という表現を読んだだけで、鑑賞者は、湖を見下ろす位置に立ち、湖を全体として眺める視角を取ることになります。湖を見下ろす位置というのが、ロークが立っている崖っぷちであることは、言うまでもありません。《... at the edge of a cliff. The lake ...》で、崖っぷちから湖面を一直線に見下ろす視点・視角が定まり、《... lay ...》で、湖面全体に視角が広がる感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;&lt;a name=&quot;kanshi&quot;&gt;冠詞は〈主体表現〉&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　冠詞（「the」と「a」）も、表現者の認識態度を示す〈主体表現〉の一つです。「the」は、ある客体に、主体がのめり込んだ感じを表現します。これに対して「a」は、ある客体から、主体が一歩引いた感じを表現します。言い換えると、「the」は主体の&lt;u&gt;体験的&lt;/u&gt;態度を表現し、「a」は主体の&lt;u&gt;反省的&lt;/u&gt;態度を表現します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《&lt;u&gt;The&lt;/u&gt; lake》と言ったときには、客体である湖が表現されると同時に、湖と言えばこの湖以外思い浮かばない、この湖に没入した、主体の認識状態も表現されます。〈主体表現〉は、鑑賞者の認識状態を規定する表現でもありますから、《&lt;u&gt;The&lt;/u&gt; lake》によって鑑賞者は、湖と言えばこの湖以外思い浮かばない認識状態に、半ば強引に引き込まれます。日本語では、「&lt;u&gt;The&lt;/u&gt; lake」だろうが「&lt;u&gt;A&lt;/u&gt; lake」だろうが「湖」ですから、読者を物語の世界に引き込むこの効果は、残念ながら翻訳できません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一つ前の文に出てきた《&lt;u&gt;a&lt;/u&gt; cliff》には、客体である崖（ロークの足元の崖）が表現されていると同時に、この崖だけに意識を集中せず、この崖をたくさんある崖の一つとして把握する、主体の認識状態も表現されています。見方を変えると、《&lt;u&gt;a&lt;/u&gt; cliff》には、潜在的に、ロークの足元の崖以外の崖も表現されていると言えます。ロークの足元の崖以外の崖とは、ここでは、湖を取り囲む数々の崖です。《&lt;u&gt;a&lt;/u&gt; cliff》によって鑑賞者は、意識の中心ではロークの足元の崖を捉えながらも、意識の縁辺では湖の周囲の崖も捉えるという、独特の解放感ある意識状態に置かれます。日本語では、「&lt;u&gt;a&lt;/u&gt; cliff」だろうが「&lt;u&gt;the&lt;/u&gt; cliff」だろうが「崖」ですから、意識の中心と縁辺を同時に喚起するこの効果は、残念ながら翻訳できません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《far below him》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「far」は、〈隔離〉の程度を強調する副詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「below」は、「～の下に」という意味の前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《far》が《below him》という前置詞句を修飾して、「彼のはるか下に」という意味になります。直接的には、ロークから湖までの距離を強調する表現ですが、間接的には、ロークが立っている崖の大きさ強調する表現でもあります。既に述べたように、この第2段落と次の第3段落では、崖の巨大さがこれでもかこれでもかと強調されます（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;鑑賞者の視点の移行&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《The lake lay far below ...》までで、崖の上から湖を見下ろす視点が、完全に定まります。この視点はロークの視点です。この部分では、鑑賞者が、ロークの立場に移行して世界を見ることになります。最後の《him》では、鑑賞者が、ロークを客体として見る立場に移行します。したがって、この文で鑑賞者は、ロークの立場とロークを観察する立場に、意識が二重化します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/111_07a9#shiten&quot;&gt;前々回&lt;/a&gt;から検討してきたように、冒頭の《HOWARD ROARK laughed.》からこの文までは、筆者の（＝鑑賞者の）視点の移行を、かなり厳密に追跡できます。この、視点を明確にした描き方が、次の文における視点の飛躍に、効果的につながります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　自動詞とは、目的語を取らない動詞です。これに対して他動詞とは、目的語を取る動詞です。目的語とは、行為の対象を示す語です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　〈客体（的）表現〉と〈主体（的）表現〉について、三浦つとむは次のように説明しています。&lt;br /&gt;
&lt;img alt=&quot;『日本語はどういう言語か』第1図&quot; title=&quot;『日本語はどういう言語か』第1図&quot; src=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/images/shasei.jpg&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 0px 0px 0px;&quot; /&gt;《第1図として、机のスケッチを二枚示しました。これは二人の子どもに同じ机を写生させたものです。見るように、この二つのスケッチにはちがいがあります。どこがちがっていますか？　「(A)は机の前がわしか描いてないが(B)は机の上まで描いてあるところがちがう。」--画面としてはそうですね。そのほかにないでしょうか？　「……子どもの見かたがちがう、ともいえる。」--そうです、そこが重要なのです。写生するには、子どもと机とが現実に一定の関係を持たなければなりません。作者は机に対して一定の位置を占めなければなりません。この作者と机の位置がちがったので、当然に子どもの目にうつった机のかたちもちがってき、この目にうつったかたちを紙の上に写生したこれらの画面のちがいもうまれたわけです。子どもは、机を写生しましたし、われわれも画面に机を見るにはちがいありませんが、この画面はまたそれと同時に写生した子どもの位置をも示しています。子どもは自分の位置を示そうと意識しなかったにもかかわらず、結果としては画面に作者の位置を示すことになってしまうのです。位置を示すことを拒否したのでは、写生ができなくなってしまいます。&lt;br /&gt;
〔中略〕&lt;br /&gt;
　私が昔見た喜劇映画の中に、よっぱらって帰ってきたサラリーマンの目に家がグラグラと左右にゆれたり、妻の顔が二重三重になって見えたりする場面がありました。このときの画面は、サラリーマンの位置で、サラリーマンの見かたを強調しているのです。またある映画では、悲しい手紙を読んでいる老人の姿を見せ、つぎにその手紙の大写しになったとき、老人の涙で手紙の文字がボケてくる場面を見せました。これも老人の位置で彼の見かたを強調しているのです。これらは、単に位置を示すだけでなく、その位置にいる人間の独自の見かた・感情などを意識的に打ちだそうとした表現です。たとえグラグラゆれたかたちでとらえても、二重三重にダブらせてとらえても、ボケたかたちでとらえても、それはとらえる相手の実際のかたちと全然無関係なものではありません。それらのかたちから実際のかたちを推察することができます。&lt;br /&gt;
　ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格をもそなえており、さらに作者独自の見かたや感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造をもち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。作者のとらえる相手を客体と呼び、作者自身を主体とよぶなら、客体についての表現をすることが同時に主体についての表現を伴ってくることになります。&lt;strong&gt;絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体&lt;/strong&gt;として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見かたや感情などの表現とが区別される、ということになります。》（三浦つとむ『日本語はどういう言語か』1976年、講談社学術文庫、p.15～18、太字原文）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/121_d8e2#height&quot;&gt;一つ前の文の分析&lt;/a&gt;で私は、水泳競技の公認の飛び込み台の高さが最高10mであることを根拠に、この崖の高さを約10mと推測しましたが、これは少し短絡的だったかもしれません。というのも、飛び込み台の高さの上限は、人間が飛び込める高さの上限だけでなく、合理的な費用で掘削できるプールの深さの上限によっても、規定されるからです。とはいえ、先日あるテレビ番組（テレビ朝日「クイズプレゼンバラエティー　Ｑさま！！」、「芸能界チキンＮＯ．１決定戦－１０ｍ高飛込み・何秒で飛び込めるか！？」 ）で見た10m飛び込み台上からの映像には、これが人間が飛び込める高さの上限と推測させるのに、十分な恐怖感がありました。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-11-28T22:05:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf.html">
<title>第1節、第2段落、第3文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf.html</link>
<description>《A frozen explosion of granite burst in flight to the sky over motionless water.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《A frozen explosion of granite burst in flight to the sky over motionless water.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《A frozen explosion of granite》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「frozen」は、「凍った」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「explosion」は、「爆発」という意味の名詞です。凍結された&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「granite」は、「花崗岩」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「花崗岩の、凍結された爆発」という意味です。ロークの足元の絶壁の迫力ある姿を、「凍結された爆発」と表現しています。英語では「花崗岩」が最後に来るので、読者は「凍結された爆発？　何それ！？」と意表を突かれる仕掛けになっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;花崗岩という岩石&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　岩石には、次の3種類があります。&lt;br /&gt;
　(1)マグマが冷えて固まった&lt;strong&gt;火成岩&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
　(2)海底などへの堆積物が固まった&lt;strong&gt;堆積岩&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
　(3)マグマの熱や地殻変動の圧力で火成岩や堆積岩が変成した&lt;strong&gt;変成岩&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　花崗岩は、マグマが地下の比較的浅いところに上昇して固まった、火成岩の一種です。色は純白、淡紅、または淡灰で、磨くと美しい光沢が出ます。強度も強いため、土木・建築用石材としてよく利用されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《burst in flight to the sky》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「burst」は、「炸裂する」という意味の自動詞「burst」の過去形です。「burst」は過去形も現在形も「burst」ですが、主語が三人称単数にも関わらず語尾に「s」がないので、過去形と判断できます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「flight」は、「飛翔」という意味の名詞です。その前の「in」は、ここでは〈状態〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「sky」は、「空」という意味の名詞です。その前の「to」は、〈方向＋到達点〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「炸裂して、天に向かって飛翔していた」という意味です。ロークの足元の絶壁の迫力と高さを、比喩的に表現しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《over motionless water》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「over」は、ここでは「～の上に」という意味の前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「motionless」は、「静止した」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「water」は、「水」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「静止した水の上に」という意味です。迫力ある絶壁が、静かな湖面を見下ろすように屹立する様子を表現しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;「凍結された爆発」&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「凍結された爆発」という表現には、七つの効果があります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一つ目は、読者の意表を突くことによって、読者を物語の世界にさらに引き込む効果です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　二つ目は、ロークが立っている絶壁の、巨大さ、強固さ、迫力を強調する効果です。強調された絶壁の巨大さが、第3段落最後のどんでん返しに効果的につながります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　三つ目は、物質としての花崗岩の在り方を、ビビッドかつダイナミックに表現する効果です。花崗岩は、マグマが地下の比較的浅い所に貫入し、冷えて固結した岩石です。地下のマグマの温度は、およそ900～1200℃に達します。この意味で、花崗岩という物質自体が「凍結された爆発」としての性質を持っています。花崗岩の白っぽい色も、「凍結」という連想と親和的です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　四つ目は、人間に利用されるべき存在としての、自然の潜在力を示唆する効果です。爆発は力の象徴でもあります。凍結された状態とは、見方を変えると、解凍され利用されるのを待っている状態です。ここでは、自然と人間のあるべき関係の象徴として、花崗岩が、建築家ロークによって建材として利用されるのを待っている存在として描かれています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　五つ目は、ロークの精神力の在り方を示唆する効果です。&lt;a name=&quot;seishinryoku&quot;&gt;高岡英夫は、人間の精神力を〈長い精神力〉と〈短い精神力〉に分け、〈短い精神力〉を〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉の三因子、およびこれらの持久力・加速力で把握する、三次元構造の精神力モデルを提示しました&lt;/a&gt;（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。爆発は〈熱力〉の象徴、凍結は〈静力〉の象徴と考えると、「凍結された爆発」は、〈熱力〉と〈静力〉のバランスが高水準で取れた状態の象徴と見ることができます（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。もちろん、〈熱力〉と〈静力〉のみが高く、〈鋭力〉が不足した状態というのは、ロークの精神力の在り方ではありません（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。次の第4文を読むと、この絶壁が「静止した湖面&lt;del&gt;に浮かんでいる&lt;/del&gt;を浮遊しているように見えた」と表現されています&lt;font size=&quot;-1&quot;&gt;〔2005年12月26日訂正〕&lt;/font&gt;。巨大な絶壁がバランスを取って水面に浮かんでいる状態は、〈鋭力〉の象徴と考えられます。したがってこの巨岩の描写は、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉がいずれにも偏ることなく高水準に達した、ロークの精神力の表現でもあるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　六つ目は、絶壁という静止した存在を、あたかも運動する存在のように認識させる効果です。これが次の第4文の「湖面を浮遊する絶壁」の描写に、効果的につながります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　七つ目は、読者の視点をダイナミックに飛躍させる効果です。この前の第2文までは、筆者の（＝読者の）視点の移行を、かなり厳密に追跡できました。ここで突然「凍結された爆発」と来ると、読者は視点の手掛かりを失います。この爆発は花崗岩を吹き飛ばすだけでなく、読者の視点も吹き飛ばすのです。吹き飛ばされた視点の手掛かりが、「sky」＝「空」でなんとかつかめ始め、最後の「water」＝「水」でようやく「あぁ、湖面から絶壁を見てるんだ」と把握できる仕掛けです（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。こうした語順がもたらす効果は、日本語にはなかなか訳せません。単に視点が移動するのではなく、いったん視点の空白期間を挟まれることで、読者は、作者の認識運動をより生々しく追体験できます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;不定冠詞による視点の浮遊化&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/122_60e7#kanshi&quot;&gt;前述&lt;/a&gt;したように、冠詞（「the」と「a」）は、表現者の認識態度を示す〈主体表現〉の一つです。「the」は、ある客体に、主体がのめり込んだ感じを表現します。これに対して「a」は、ある客体から、主体が一歩引いた感じを表現します。言い換えると、表現主体と客体の結び付きがより直接的なのが「the」で、より媒介的なのが「a」です。「&lt;u&gt;The&lt;/u&gt; frozen explosion」と書かずに「&lt;u&gt;A&lt;/u&gt; frozen explosion」と書くことで、前述した「視点の空白期間」を生み出す効果が、さらに強められています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;静／動のコンビネーションによる揺さぶり&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「A frozen〈静〉」－「explosion of〈動〉」－「granite〈静〉」－「burst in flight to the sky over〈動〉」－「motionless water〈静〉」という静／動のコンビネーションが、読者の認識を力強く揺さぶります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここでも語順の効果を活かすため、1文を2文に切り、後半を次の文につなげて訳してみました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;花崗岩の爆発が、天空へと飛翔している。巨岩は、静止した湖面&lt;/strong&gt;&lt;del&gt;に浮かんで&lt;/del&gt;&lt;strong&gt;を浮遊しているかに見えた。&lt;/strong&gt;」&lt;font size=&quot;-1&quot;&gt;〔2005年12月26日訂正〕&lt;/font&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　日本語では、過去形の文は末尾がすべて「～た」になってしまいます。同じ文末が続いて単調になる場合は、原文が過去形でもあえて現在形に訳すことがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　〈長い精神力〉は〈行動的精神力〉とも呼ばれ、〈短い精神力〉は〈運動的精神力〉とも呼ばれます。&lt;br /&gt;
《精神力を考察するには、二つの時間的観点が必要である。一つは長いタイムスパンにおける精神力＝〈長い精神力〉であり、従来の体育学・スポーツ科学の枠内で考えれば、主に発育・発達・長い目で見たトレーニングの局面がこれに関係することになる〔***〕。二つ目は短いタイムスパンにおける精神力＝〈短い精神力〉であり、主に試合及び短い目で見たトレーニングの局面がこれに関係することになる。&lt;br /&gt;
　〔脚注〕***行動科学的に考えれば、〈長い精神力〉は〈行動的精神力〉、〈短い精神力〉は〈運動的精神力〉と概念化されるべきであろう。》（高岡英夫『鍛練の展開―身体の中芯からの革命』1993年、恵雅堂出版、p.98）&lt;br /&gt;
&lt;img alt=&quot;『鍛練の実践』図17&quot; title=&quot;『鍛練の実践』図17&quot; src=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/images/seishinryoku.jpg&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;float: right; margin: 0px 0px 0px 0px;&quot; /&gt;《体力が、筋力、スピード、持久力の要因によって構成されているように、精神力（厳密にはここで扱う類の精神力を、〈行動的精神力〉に対して〈運動的精神力〉と言う）は、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉の三要因とそれが時間的に展開された持久力、加速力の、計五つの要因によって構成されている〔中略〕&lt;br /&gt;
　さてスポーツの試合では、多様な認識能力・技術（戦術を含む）・体力が、一個の全体として最高の調和をもって最大に発揮されなければならない。そして真面目に考えたら気の遠くなるほど困難なこうした事々を可能とするための決定的な条件は何かと言えば、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉がいずれにも偏ることなく、高い値に達することなのである（図17〔引用図〕の〈Ω＝オメガ〉がそれに当たる）。》（高岡英夫『鍛練の実践―その深い理解と徹底化のために』1991年、恵雅堂出版、p.195～196）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　〈熱力〉と〈静力〉のバランスが高水準で取れている、と高岡が評した人物の一人に、グレイシー柔術のヒクソン・グレイシーがいます。その試合での表情や態度を、高岡は「&lt;u&gt;氷のような&lt;/u&gt;風のような」と表現しています。&lt;br /&gt;
《--その〔グレイシー柔術の〕中に代表的なホイス、ヒクソンがいるわけですが、先生の目から見てこの二人は違いますか。&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;高岡&lt;/strong&gt;　ヒクソンの方が圧倒的に良いですね。レベルとして言えば、ヒクソンはホイスの先生といったところでしょうか。まあパフォーマンスとしてもはっきりわかりますね。例えば、メンタルコントロール。武道的に言えば心法ですが、その点で水準が違いますね。&lt;br /&gt;
　どういうことかと言えば、いわゆる闘志にあたるもの、闘う気力のボリュームが断然ホイスよりも上ですね。まあ数倍はあるでしょう。ところが、試合に登場したときの表情や態度をみると、もっと氷のような風のような、抑制されているものがある。それが、メンタルコントロールの能力なんですね。私の精神力の理論で言えば闘志というのは熱力にあたるものなんですが、それが非常に高くて、それでいて、それを抑制するような静力もそれに釣り合う程高い。そのようにバランスが取れていると、一見すると高いところでバランスが取れているのかどうかはわからない。これは、面白いんですが、熱力15静力15でバランスが取れている人間より、熱力10、静力5の人間の方が強く見える。まあプロレスなんかだとそれもキャラクターということで面白いんですが、純粋に競技スポーツ、武道を考えれば、重要なことはバランスがどれくらい高いレベルで取れているかということであって、その観点で分析するならば、技術的なもの以前にヒクソンはその点でも優れていますね。》（高岡英夫『極意化の時代―高岡英夫の極意要談〈2〉』1997年、ＢＡＢジャパン出版局、p.198）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　高岡は、〈静力〉と〈熱力〉のみが高く〈鋭力〉が不足した状態を、次のように説明しています。&lt;br /&gt;
《x・y軸の〈静力〉・〈熱力〉が共に高く、〈鋭力〉のみが不足している状態では、燃えるような闘志と冷静さは兼ね備えているが、詳細な戦術的思考や繊細な技術的感覚が鈍く、自信にあふれたプレーをしているように見えても難しい場面でのミスが多く、思ったほどの結果が出ない。》（『鍛練の展開―身体の中芯からの革命』p.104）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　ただし、この「water」は無冠詞で使用されていますから、視点の浮遊状態は、完全には解消されていません。読者が少し想像力を働かせて、この「water」が湖面のことだと理解して、ようやく視点が定まるようになっています。読者は、想像力を要求されることで、物語の世界により強く引き込まれます。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-12-08T21:24:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/124_6825.html">
<title>第1節、第2段落、第4文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/124_6825.html</link>
<description>《The water seemed immovable, the stone--flowing.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The water seemed immovable, the stone--flowing.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The water seemed immovable》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「water」は、「水」という意味の名詞です。ここではもちろん、ロークのはるか真下に広がる湖の水です。視点は、前の文からの流れで、湖面上にあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「seemed」は、「～に見える」という意味の自動詞「seem」の過去形です。「seem」は補語（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）が必要な動詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「immovable」は、「不動の」という意味の形容詞です。ここでは、その前の「seemed（～に見えた）」の補語になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「水は不動に見えた」という意味です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2種類の「seem」&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「seem（～に見える）」には、次の2種類があります。&lt;br /&gt;
　(1)「確信は持てないが、見たところ～だと思われる」&lt;br /&gt;
　(2)「実際には違うのだが、あたかも～であるように見える」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　水は不動ではありませんから、この「seemed」はもちろん(2)の意味で使われています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《the stone--flowing》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「stone」は、「石」という意味の名詞です。ここでは、ロークが立っている絶壁を指します。湖を「water（水）」という物質名で表現しているのに合わせて、絶壁も「stone（石）」という物質名で表現しています（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「--」（ダッシュ）の部分には、述語動詞（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）「seemed」が省略されています。「seemed」の代わりにダッシュを置くことで、同じ単語の繰り返しを防ぐと同時に、「絶壁が湖面上を浮遊する」という空想的な世界に移行するための、準備期間を作っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「flowing」は、「流れる」という意味の自動詞「flow」の現在分詞です。ここでは、その前に省略された「seemed」の補語になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「石（＝絶壁）は―流れているように見えた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;不動の湖面と浮遊する絶壁&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　前述したように、ここで使われている「seem」は、「実際には違うのだが、あたかも～であるように見える」という意味です。「（湖の）水が流動し、（絶壁の）石が不動」という現実の在り方が、「（湖の）水が不動で、（絶壁の）石が流動している」ように逆転して見えたということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ゆったり流れる湖面の向こうに巨大な絶壁が屹立するさまが、あたかも絶壁が湖面を浮遊しているかのように見えたという描写は、読者の眼前に広がる風景の、雄大さやダイナミックさ際立たせていると同時に、ロークの精神の、重厚かつ明敏かつ自由な在り方を示唆してもいます。「天へと飛翔している」と描写された高い絶壁が、直立したまま水面を浮遊するありさまは、〈センター〉や〈自由下丹田〉といった〈極意〉を、象徴的に表現していると見ることもできます（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　補語とは、不完全な動詞の意味を補う語です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　「stone」は、物質としての「石」と物体としての「石片」の、どちらも表します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　述語動詞とは、主語を取って節（S + V）を作っている動詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　高岡英夫は、〈自由下丹田〉が形成された代表的人物の一人としてカルロス・ゴーンを挙げ、彼の〈自由下丹田〉を水に浮かぶ舟にたとえています。&lt;br /&gt;
《下丹田には、大きく分けて２タイプあるのです。〔中略〕１つはゆるんだ状態を前提にして形成される「自由下丹田」で、もう１つは固まった状態を前提にして形成される「拘束下丹田」です。》（高岡英夫『丹田・肚・スタマック―自分の中の天才を呼びさます』2005年、ベースボール・マガジン社、p.36～37）&lt;br /&gt;
《彼〔カルロス・ゴーン〕の下丹田は典型的な自由下丹田です。舟は波にゆらゆら揺れたり、風に吹かれたりします。舟は常に水の上だから流動的です。彼はそういう下丹田をしている。常に舟のごとく揺れ漂う下丹田をしているのです。だから彼は硬直的な経営をしなかったのです。もし硬直的な経営をしたら、皆反発してしまうし、本人も何を本当になすべきかを見出せないまま挫折したでしょう。》（『丹田・肚・スタマック―自分の中の天才を呼びさます』p.48）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-12-19T23:00:47+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/125_3954.html">
<title>第1節、第2段落、第5文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/125_3954.html</link>
<description>《The stone had the stillness of one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The stone had the stillness of one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The stone had the stillness of ...》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; 　《The stone》は「石」で、ここではロークが立っている絶壁を指します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「had」は、「～を持つ」という意味の他動詞「have」の過去形です。物語の世界における目の前の現実は、過去形で表現されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「stillness」は、「静止」という意味の名詞です。定冠詞「the」が付いているのは、その後の《of》以下で限定されているためです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「石（＝絶壁）には、（《of》以下の）静止があった」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《one brief moment in battle》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「one」は、「一つの」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「brief」は、「短い」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「moment」は、「瞬間」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「battle」は、「闘い」という意味の名詞です。この名詞に冠詞が付いていないのは、これが抽象的な「闘い」だからです（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「one brief moment in battle」全体で、「闘いの中の一瞬」という意味です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《when thrust meets thrust》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この「when」は関係副詞で、先行詞はその前の「moment」です。「闘いの中の一瞬」がどのような一瞬なのかを説明する、形容詞節を導いていています（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「thrust」は、「推力・推進」という意味の名詞です。ここでも抽象的な推力を意味しているので、冠詞は付いていません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「meets」は、「～に出会う」という意味の他動詞「meet」の現在形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《one brief moment in battle when thrust meets thrust》を直訳すると、「推力と推力が出会う闘いの中の一瞬」になります。抽象的な力の衝突を、比喩的に「闘い」と表現しているわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;現在形による超時間的表象の表現&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《meets》が現在形になっているのは、「推力と推力の出会い」が（物語の世界における）目の前の現実ではなく、現実から連想された、超時間的な表象だからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　過去の世界も未来の世界も、目の前にある現在の世界とは区別されるという意味で、「（すでに・まだ）非現実」の世界です。ここから、本来は現在と過去・未来の区別を表現するための文法規則であった時制が、現実と仮想の区別や、具体的事実と抽象的真理の区別などを表現するためにも使用されるようになりました。仮定法もその一例ですし、普遍的な（超時間的な）事柄を常に現在時制で表現するのも、その一例です（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここでは、「絶壁の静止」という&lt;u&gt;現実&lt;/u&gt;と「推力と推力のぶつかり合い」という&lt;u&gt;表象&lt;/u&gt;の区別が、過去形（had）と現在形（meets）の時制の違いで表現されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《and the currents are held in a pause》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「and」は、対等のもの同士（文と文、節と節、句と句、語と語など）を結ぶ接続詞です。ここでは、《the currents are held》という節と、その前にある節を結んでいます。《and》の前に節が2つあるので、どちらの節と結んでいるのか、一瞬迷います。「and」は対等のもの同士を結びますから、《The stone had the stillness》と結んでいるなら、《the currents are held》も&lt;u&gt;現実&lt;/u&gt;ということになりますし、《thrust meets thrust》と結んでいるなら、《the currents are held》も&lt;u&gt;表象&lt;/u&gt;ということになります。ここでは&lt;u&gt;現実&lt;/u&gt;が過去形、&lt;u&gt;表象&lt;/u&gt;が現在形で表現されていますから、《and》は、現在形同士の《thrust meets thrust》と《the currents are held》を結んでいると判断できます。「when」から始まる形容詞節は、文末まで続くわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「currents」は、「流れ」という意味の名詞「current」の複数形です。定冠詞「the」が付いているのは、この「流れ」が、その前の「thrust（推力）」によって生じた「流れ」であるという意味で、特定されているからです。複数形であるのは、対立する両方向からの「推力」によって、対立する2方向の「流れ」が生じているからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「are held」は、「維持する」という意味の他動詞「hold」の、現在形・受動態です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「in」は、ここでは〈状態〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「pause」は、「一時停止」という意味の名詞です。不定冠詞「a」を付けることによって、「ある長さの」という意味が出ます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause》を直訳すると、「推力と推力が出会い、（両方からの）流れが一時的に静止状態にとどめられている、闘いの中の一瞬」になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《more dynamic than motion》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「more dynamic」は、「動的な」という意味の形容詞「dynamic」の比較級です。限定用法で、その前の《a pause》を修飾しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「than」は、ここでは比較の対象を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「motion」は、「動き」という意味の名詞です。これも抽象的な「動き」なので無冠詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《a pause more dynamic than motion》を直訳すると、「運動より動的な一時停止」です。《one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion》を直訳すると、「推力と推力が出会い、（両方からの）流れが、一時的に、運動より動的な静止状態にとどめられている、闘いの中の一瞬」になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;「運動より動的な静止」&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「運動より動的な静止」は、&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf.html&quot;&gt;この段落の3文目&lt;/a&gt;に出てきた「凍結された爆発」を、より抽象的に捉え直した表現です。直接的には、ロークが立っている絶壁の迫力を表現していますが、すでに述べたように、ロークが立っている絶壁は、「自然の力」と「ローク（＝理想の個人）の力」の二重の象徴になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「自然の力」の象徴としては、「運動より動的な静止」は、自然の潜在力が人間に利用されるのを待っている在り方を示唆しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「ローク（＝理想の個人）の力」の象徴としては、「運動より動的な静止」は、物静かなロークが内に秘めた、巨大なエネルギーや創造力を示唆してると同時に、ロークの能力と社会的な抑圧の闘争も示唆しています。さらには、「動中に静あり、静中に動あり」という、達人的な意識状態を示唆していると見ることもできます（&lt;a href=&quot;#note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文全体をほぼ直訳すると、「石（＝絶壁）には、推力と推力が出会う闘いの中で、（両方からの）流れが、一時的に運動より動的な静止状態にとどめられている一瞬の（ような）、静止があった」という意味になります。ややぎこちないですが、次のような訳が考えられます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;巨岩の静止は、推力と推力がぶつかるところに生じる、運動以上にダイナミックな一瞬の静止だった。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　具体的かつ独立的な（数えられる）存在を指す名詞の単数形には、必ず冠詞または冠詞相当語（所有格、指示形容詞、some、any、no、one、every、each）が付きます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　関係詞とは、形容詞節を導く語です。形容詞節とは、名詞または代名詞を修飾する節です。節とは、主語＋述語動詞です。形容詞節に修飾される名詞・代名詞を、関係詞の先行詞と呼びます。関係詞のうち、形容詞節内で主語・補語・他動詞の目的語・前置詞の目的語のいずれかになるものを関係代名詞と呼び、形容詞節内で動詞・形容詞・副詞のいずれかを修飾するものを関係副詞と呼び、直後の名詞・代名詞を修飾するものを関係形容詞と呼びます。ここで使われている関係副詞《when》は、《meets》と《are held》の二つの動詞を修飾しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　言語表現における時制については、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』1976年、講談社学術文庫、p.211～228を参照。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note5&quot;&gt;※5&lt;/a&gt;　高岡英夫は、古来言われる「動中に静あり、静中に動あり」が、〈フリーフルクラム〉の極限状態を表現したものであることを示唆しています。&lt;br /&gt;
《人は一般に、足裏ではカカトから外縁そしてツマ先部分に、“力感”あるディレクターが形成され易い。つまり両足をピタッとそろえて立った状態で、両足の周囲をグルリと囲む“輪”の形で“力み”の意識構造が形作られているのだ。&lt;br /&gt;
　この輪状のディレクターに、私は「足輪〔そくりん〕」という名前を付けている。この足輪は、身体全体の外面をおおう“包状”のディレクターと連続することで、身体に動きの不自由な“金縛り”状態をもたらす〔*〕。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;*この足輪と“包”を合わせた金縛り状態のディレクターを「スティフルクラム（stiff fulcrum）と言う。&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;　人が一般的に金縛り状態にあるなどと聞くと、「まさか自分は違う」と誰しも思うものだ。しかるに実は、この足輪から包にわたる金縛りのディレクター「スティフルクラム」こそ、人類に確固たる安定した「完全な直立二足歩行」をもたらした、根底的なディレクターなのだ。》（高岡英夫『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』1995年、講談社、p.32、図は省略）&lt;br /&gt;
《スティフルクラムがはずれると、人は自分を安定的に囲み支えてくれる“柱”を失う。そのために意識は一気に重心、重心落下線へと集中する（せざるを得ない）。しかしたとえ重心落下線に意識が濃く集まったとしても、それだけでは、人は直ちに真下に潰れ落ちるだけで、およそ地球の重力に抗して身体を上昇させ定位させようとする、根底的な意識をすら持つことができない。&lt;br /&gt;
　つまり人はここにおいて、重心落下線とピタリと一致する支持線の意識を必要とするわけだ。勿論この場合、重心落下線も支持線もディレクターである。&lt;br /&gt;
　〔中略〕二本のディレクター〔重心落下線と支持線〕がズレていれば、身体は直ちに支持線に対し重心落下線側に崩れ倒れ始める。放っておけば支持線と重心落下線のズレ〔*〕は一気に大きくなり本当に倒れてしまう。となると支持線は、スーッと移動して重心落下線を追いかけ、追い越し反対側に回る。一瞬それによって倒運動は止んだかに見えるが、それは全く同時に新たなフルクラムギャップの誕生なのだ。直ちに新たな支持線による追っかけ、追い越しが始まる。それがまた新たなフルクラムギャップを生む。……とクルクル、スルスル、ツルツルと重心落下線は支持線の追求をかわし続け、支持線はアッチへコッチへと休む間もなく追いかけ続ける……と、これが永久に続くのだ。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;*フルクラムギャップ（fulcrum gap）という。&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;　これが実は、スティフルクラムのはずれた本人の主観に映り或いは人を観察して感ずる、あのユラユラの中身なのだ。&lt;br /&gt;
　二本のディレクターのズレをなくすべく、意識が厳密を究めれば究めるほど、各々の線が細くなり、二本の追求のし合いが厳密になればなるほど、ユラユラの振幅は狭くなり、ユラユラの振動数は増大し、ユラユラはやがて超絶至妙の“外見的にも主観的にもほとんど動いているように感じられない”運動状態となる。真の名人の境地、その意識状態、運動状態とは、このような段階をいうのであろう。古来言われる「動中に静あり、静中に動あり」の意識構造が、これなのかもしれない。こうした状態をマックス・フリーフルクラムと呼んでいる。》（『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』p.40～43、図は省略）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2005-12-26T19:48:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/01/126_065f.html">
<title>第1節、第2段落、第6文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/01/126_065f.html</link>
<description>《The stone glowed, wet with sunrays.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The stone glowed, wet with sunrays.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The stone glowed,》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《The stone》は「石」で、ここではロークが立っている絶壁を指します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「glowed」は、「輝く」という意味の自動詞「glow」の過去形です。「glow」は、「頬が紅潮する」や「胸が熱くなる」などの意味でも使われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「石（＝絶壁）は輝いていた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《wet with sunrays.》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「wet」は、ここでは「～を濡らす」という意味の他動詞「wet」の過去分詞です。これは分詞構文（beingの省略）で、絶壁が輝いていた〈原因〉を示しています（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「with」は、ここでは〈材料〉を示す前置詞です。絶壁が何によって「濡らされていた」のかを示しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「sunrays」は、「（一条の）太陽光線」という意味の名詞「sunray」の複数形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「（幾筋もの）太陽光線で濡らされて」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;絶壁の発光&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《The stone glowed》の後にカンマが置かれることで、絶壁が輝いている原因が、一瞬伏せられる形になっています。これにより、絶壁自体が発光しているかのような錯覚が生じます。既に述べたように、この第2段落と次の第3段落は、絶壁の巨大さを強調し続けて最後にどんでん返し、という構成になっています。発光も、巨大な絶壁という印象を補強しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また何度も述べているように、この絶壁は「自然」と「ローク（＝理想の個人）」の二重の象徴です。絶壁の発光は、自然およびロークが示す巨大なエネルギーの象徴でもあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「glow」は、主として高熱による、炎を伴わない、安定した発光を表現する語です。また、頬の紅潮や感情の高まりを表現する語でもあります。したがってこの光は、〈熱力〉と〈静力〉のバランスが高水準で取れた、ロークの精神力を示唆していると見ることができます。「sunray」は一直線に走る太陽光ですから、これを〈鋭力〉の象徴と見ると、「sunray」と「glow」の組み合わせで、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉のいずれもが高水準に達した状態を表現しているとも解釈できます（〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉については、「&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf#seishinryoku&quot;&gt;第1節、第2段落、第3文&lt;/a&gt;」で言及しました）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;太陽光線が濡らす絶壁&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「wet（＝～を濡らす）」というのは、本来は水に関わる現象に使用する語です。太陽光線が当たる現象をこの語で表現するのは、一般的なことではありません。これはかなり詩的な表現です。この表現によって、絶壁にも、太陽光線にも、太陽光線の当たり方と反射の仕方にも（したがってこれらによって象徴される自然およびロークのあり方にも）、水が持つ独特の質感（柔軟性、透明性、冷性、純粋性、浸透力など）が与えられています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、「wet」が使われることで、絶壁が輝いている原因が最後まで伏せられるため、絶壁自体が発光しているという印象が、より強化されています。さらに「wet」は、光が単に反射しているのではなく、いったん絶壁に吸収されているという印象も与えますから、この点からも、絶壁自体が発光しているという印象を強化していると言えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　原文の語順が持つ効果を生かすためには、「花崗岩は輝いていた ― 濡らされていたのだ ― 幾筋もの太陽光線に。」と訳したいところですが、これではいかにも気障ったらしくなります。仕方ないので、次のように訳してみました。「光を放つ」という能動的な表現を使うことで、なんとか絶壁自体が発光している印象を出そうとしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;花崗岩は幾筋もの太陽光線に濡らされ、光を放っていた。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;第1～第2段落訳まとめ&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　冒頭からここまでの訳をまとめてみます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《Howard Roark laughed.&lt;br /&gt;
　He stood naked at the edge of a cliff. The lake lay far below him. A frozen explosion of granite burst in flight to the sky over motionless water. The water seemed immovable, the stone -- flowing. The stone had the stillness of one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion. The stone glowed, wet with sunrays.》（『The Fountainhead』、Signet Books、p.15）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;ハワード・ロークは笑った。&lt;br /&gt;
　彼は裸で屹立していた。足元の絶壁のはるか真下に、湖が広がっている。花崗岩の爆発が、天空へと飛翔して凍結されていた。巨岩は、静止した湖面を浮遊しているかに見える。巨岩の静止は、推力と推力がぶつかるところに生じる、運動以上にダイナミックな一瞬の静止だった。花崗岩は幾筋もの太陽光線に濡らされ、光を放っていた。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　分詞構文とは、節（S＋V）の代わりに現在分詞を使って、〈時〉、〈原因・理由〉、〈条件〉、〈情報〉、〈結果〉、または〈付帯状況〉を示す従属節（の代わり）を作る構文です。分詞構文の主語が主節の主語と同じときは、分詞構文の主語は省略されます。分詞構文の接続詞も、原則として省略されます。be動詞を分詞構文にしたときの「being」も、原則として省略されます。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-01-07T21:48:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/01/131_af16.html">
<title>第1節、第3段落、第1文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/01/131_af16.html</link>
<description>《The lake below was only a thin steel ring that cut the rocks in half.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The lake below was only a thin steel ring that cut the rocks in half.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The lake below was only a thin steel ring》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「lake」は、「湖」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「below」は、「下の」という意味で、その前の《The lake》を修飾しています（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「thin」は、「薄い・細い」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「steel」は、「鋼〔はがね〕の」という意味の形容詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「ring」は、「輪」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「下の湖は細い鋼のリングに過ぎなかった。」になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《that cut the rocks in half》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「that」は、ここでは関係代名詞です。「薄い鋼のリング」について説明する形容詞節を導いています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「cut」は、「～を切る」という意味の他動詞「cut」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「rocks」は、「岩」という意味の名詞「rock」の複数形です。ここでは湖を囲む崖の岩々を指します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「in」は〈状態〉を示す前置詞、「half」は「半分」という意味の名詞です。「in half」で「半分に」という意味になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「崖を半分に切る～」になります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;消える湖面&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「湖が、崖を半分に切るリングにしか見えなかった」というのは、静かな湖面が完全な鏡になり、実際の崖と湖に映った崖の区別が付かないさまを表現しています。鏡像を実在として意識するとき、鏡面は顕在意識から消失します。ここでは、湖面に映る倒立した崖が実在として意識され、湖面が顕在意識から消えています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf.html&quot;&gt;前段落の第3文&lt;/a&gt;で湖を「motionless water」と表現していたことが、この「鏡と化し消える湖面」に巧みにつながっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「崖を半分に切るリング」といったときの「崖」は、現実の崖そのものではありません。現実の崖と、倒立した鏡像の崖を、ひとまとめに意識した幻想上の巨岩です。この巨岩は湖を取り巻いているので、全体としてドーナッツ状です。このドーナッツ状の巨岩のちょうど半分のところを通る汀線〔みぎわせん〕が、輝く極細のリングを形成しているわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;浮き上がる巨岩&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　湖面が顕在意識から消え、湖面に映った崖が実在として意識されることの効果は、次の三つです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;u&gt;(1) ロークの足元の崖がさらに巨大化すること&lt;/u&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　繰り返し述べているように、前の第2段落とこの第3段落は、絶壁の巨大さを強調し続けて最後にどんでん返し、という構造になっています。湖面に映った崖が実在として意識されるとき、現実の崖の高さに鏡像の崖の高さが加算され、認識の上で、崖の高さは2倍になります。ここまで繰り返し強調されてきた絶壁の巨大さと迫力が、一気に倍増するわけですからその効果は絶大です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;u&gt;(2) ロークの足元の崖がさらに浮遊化すること&lt;/u&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/124_6825.html&quot;&gt;前段落の第4文&lt;/a&gt;で、すでに《The water seemed immovable, the stone--flowing.》（巨岩は、静止した湖面を浮遊しているかに見えた）と述べられていました。ここで湖面に映った崖が実在として意識されることによって、現実の崖と鏡像の崖を合わせた巨岩が、空中に浮かんでいるイメージが現れます。水面を浮遊する巨岩から空中を浮遊する巨岩へと、浮遊の度合いがさらに高まっているわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;u&gt;(3) ロークの足元の崖がさらに流動化すること&lt;/u&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/12/123_10cf.html&quot;&gt;前段落の第3文&lt;/a&gt;で、すでにこの絶壁は、《A frozen explosion》（凍結された爆発）というように流動性を潜在させて表現されていました。ここで現実の崖と鏡像の崖が合体して意識されることによって、真ん中（汀線）を境に上下が絶えずずれ合う巨岩のイメージが現れます。潜在的な流動性から顕在的な流動性へと、流動の度合いがさらに高まっているわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;幻想的描写が示唆する達人の世界&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　浮遊し流動する巨岩が、理想の個人の在り方を象徴していると解釈できることは、すでに繰り返し指摘しました。ここでは新たに、水面が鏡と化すイメージが登場しています。ここで思い出されるのが、江戸時代の日本で書かれた剣法・兵法の伝書に、極意的な境地の表現としてしばしば「水月」（水面に映る月影）という言葉が登場することです（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『水源』冒頭で描写されているこの湖面は、剣法・兵法の伝書に書かれている意味での「水月」を表現しているわけではありません。しかし、アイン・ランドが理想の個人を描いた小説の冒頭シーンと、江戸時代の剣法・兵法家が理想の境地を説いた教えのどちらにも、鏡と化した静かな水面が登場するのは興味深いことです。水面が鏡と化した状態と人間の能力の極限的な在り方の間に、何らかの共通点があり、この共通点が、17世紀日本の剣法・兵法家には「水面に映る月影」という教えを、20世紀アメリカの小説家には「湖面に映る絶壁」という描写を、それぞれ創造させたものと推察されます（&lt;a href=&quot;#note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鋼鉄製の輝く極細のリングというのも、ロークの精神の在り方を象徴しています。高岡英夫の精神力モデルで言えば、これは〈鋭力〉の象徴と言えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;眼下の湖は、岩々を真っ二つに切断する細い鋼鉄のリングでしかない。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　こうした場合の「below」の品詞は、おそらく前置詞です。前置詞の目的語は「ここ」であることが自明なので省略され、前置詞のみで「下の」という意味の前置詞句を作っています。前置詞句ですから、限定用法であっても名詞を直前から修飾することはありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　「水月」の教えが登場する江戸時代の剣法・兵法書の例としては、寛文四年（1664年）に成立した唯心一刀流の伝書『一刀斎先生剣法書』があり、竹田隆一氏と長尾直茂氏による現代語訳と分析が行われています。&lt;br /&gt;
　竹田隆一、長尾直茂&lt;a href=&quot;http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyoued/kiyoued-13-2/image/kiyoued-13-2-051to068.pdf&quot;&gt;「『一刀斎先生剣法書』訳注及びスポーツ教育的視点からの考察（１）」&lt;/a&gt;（『山形大学紀要（教育科学）第１３巻第２号平成１５年２月』）&lt;br /&gt;
　竹田隆一、長尾直茂&lt;a href=&quot;http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/kiyou/kiyoued/kiyoued-13-3/image/kiyoued-13-3-045to058.pdf&quot;&gt;「『一刀斎先生剣法書』訳注及びスポーツ教育的視点からの考察（２）」&lt;/a&gt;（『山形大学紀要（教育科学）第１３巻第３号平成１６年２月』）&lt;br /&gt;
　竹田隆一、長尾直茂&lt;a href=&quot;http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyoued/kiyoued-13-4/image/kiyoued-13-4-001to012.pdf&quot;&gt;「『一刀斎先生剣法書』訳注及びスポーツ教育的視点からの考察（３）」&lt;/a&gt;（『山形大学紀要（教育科学）第１３巻第４号平成１７年２月』）&lt;br /&gt;
特に上記（１）で竹田氏と長尾氏は、唯心一刀流の伝書『一刀斎先生剣法書』における「水月」概念を、小野派の伝書『一刀流兵法仮字書』および柳生新陰流の伝書『兵法家伝書』における「水月」概念と比較しながら分析しています（p.65）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note4&quot;&gt;※4&lt;/a&gt;　高岡英夫は、江戸時代の剣聖たちが自らの心境を「水」を使った言葉で表現しているのは、魚類が体現する背骨中心の運動が「無心の境地」を実現することを、直感的に感じていたためではないかと示唆しています。&lt;br /&gt;
《高岡　〔中略〕海の中を見事に泳ぎまわっている魚たちは、どのように動こうとか、敵に襲われたらどのように反応しようかなどと考えて、あのような見事な動きをしていると思いますか？&lt;br /&gt;
－　本能のままですよね……。ああ、なるほど。だから人間も魚のように背骨中心の動きができるようになれば、本能のままに動ける……？&lt;br /&gt;
高岡　そう。魚たちはまさに無心の境地で、あのような動きをしているのです。だから、人間も魚のような動きができれば、魚と同じ境地で動けるはずなのです。&lt;br /&gt;
　話はとびますが、江戸時代の剣聖たちが到達した心境を表した“明鏡止水”とか“水月移写”といった表現をご存知ですか。&lt;br /&gt;
－　聞いたことはあります。&lt;br /&gt;
高岡　実はそれらの言葉には“水”が使われていることが多いのですよ。このことから、おそらく彼らも今お話したようなことを直感的に感じていたのかもしれない、と私は思っているのです。》（高岡英夫『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます』2005年、ベースボール・マガジン社、p.75～76）。&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-01-26T01:05:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/02/132_c563.html">
<title>第1節、第3段落、第2文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/02/132_c563.html</link>
<description>《The rocks went on into the depth, unchanged.》※）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《The rocks went on into the depth, unchanged.》&lt;a href=&quot;#note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《The rocks went on into the depth》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「rocks」は、「岩」という意味の名詞「rock」の複数形です。ここでは湖を囲む崖を指します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「went」は、「行く」という意味の自動詞「go」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「on」は、ここでは〈継続〉の意味の副詞で、《went》を修飾しています。《went on》で「伸びていた」という感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「into」は、「～の中へ」という意味の前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「depth」は、「深み」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「岩々は深みへと伸びていた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《, unchanged.》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「unchanged」は、「変える」という意味の他動詞「change」の過去分詞に、否定の意味の接頭辞「un-」が付いたものです。これは直前に「being」が省略された分詞構文で、〈付帯状況〉を示しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「変わることなく」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;完全な鏡像&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「岩々が変わることなく深みへと伸びていた」というのは、湖が完全な鏡面と化し、岩々の姿が上下を逆にしてそっくりそのまま湖面に映っているさまを表しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;深みへと伸びる岩々&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《the depth》（深み）というのは、現実には湖の底の方ですが、ここでは湖の存在が顕在意識から消えています。したがって意識の中では、下方に広がる世界という感じです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《the depth》（深み）や《unchanged》（変わることなく）をどの程度説明的に訳すか迷うところですが、ここでは原文の簡潔さを尊重し、できるだけシンプルに訳してみました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;岩々は同じ姿のまま深みへと伸びていく。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-02-03T00:02:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/133_6fb0.html">
<title>第1節、第3段落、第3文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/133_6fb0.html</link>
<description>《They began and ended in the sky.》（※）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《They began and ended in the sky.》（&lt;a href=&quot;#note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;語句&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《They》は代名詞で、前文の《The rocks》（岩々）を指します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「began」は、「始まる」という意味の自動詞「begin」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「ended」は、「終わる」という意味の自動詞「end」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「in」は、ここでは〈場所〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「sky」は、「空」という意味の名詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;空から始まり空に果てる岩々&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　《in the sky》は、《began》と《ended》の両方を修飾しています。この文を直訳すると、「岩々は空で始まり、空で終わっていた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここでは湖面が完全に鏡になっているので、そこに映った岩々や空が鏡像ではなく実在に見えています。鏡面（＝汀線）は意識から消え、鏡像と実在は意識の上で完全に一体化しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/02/132_c563.html&quot;&gt;前の文&lt;/a&gt;で「岩々は同じ姿のまま深みへと伸びていく」と述べていたので、視線は上から下へと移動していると考えてよいでしょう。（現実の）空から視線を下げていくと、無から生まれるように（現実の）岩々が現れ、そのまま（現実の岩々との区別無く）鏡像の岩々へと視線が下がり、（鏡像の）空へ消えるように（鏡像の）岩々が終わる、という視線の運動が、この文では表現されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　段落の始めから続いている、鏡像を実在として扱う幻想的な描写をさらに補強し、次の文でのどんでん返しにつなげる一文です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;岩々は空から現れ空へと消えている。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note&quot;&gt;※&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-12-22T19:34:24+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/post_32eb.html">
<title>ご訪問ありがとうございます</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/post_32eb.html</link>
<description>　「佐々木一郎の極意学的オブジェクティビズム考」をご訪問いただき、ありがとうござ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　「佐々木一郎の極意学的オブジェクティビズム考」をご訪問いただき、ありがとうございます。&lt;br /&gt;
　このウェブサイトでは、アイン・ランドの作品と思想について、高岡英夫の理論を援用しながら論じています。&lt;br /&gt;
　サイト開設は2005年9月です。&lt;br /&gt;
　不定期で更新しておりますので、気長にお付き合いください。&lt;br /&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;佐々木　一郎&lt;/div&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ごあいさつ</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-12-22T19:42:14+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/134_f335.html">
<title>第1節、第3段落、第4文</title>
<link>http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2006/12/134_f335.html</link>
<description>《So that the world seemed suspended in space, an island floating on nothing, anchored to the feet of the man on the cliff.》（※1）</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;《So that the world seemed suspended in space, an island floating on nothing, anchored to the feet of the man on the cliff.》（&lt;a href=&quot;#note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;《So that the world seemed suspended in space,》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「so that」は、「だから」とか「その結果」という意味の文接続詞です。「そのように」という意味の副詞「so」と、「so」の内容（「どのように」）を示す副詞節を導く接続詞「that」が合わさって、「～のように」という意味の副詞節を導く接続詞になり、さらには文接続詞になったものです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「world」は、「世界」という意味の名詞です。定冠詞「the」が付いているのは「世界全体」を意味しているからです。実際の崖と湖面に映った崖を一体化して意識した幻想上の巨岩を、世界全体に見立てています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「seemed」は、「～に見える」という意味の自動詞「seem」の過去形です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「suspended」は、「～を吊る」という意味の他動詞「suspend」の過去分詞で、ここでは《seemed》の補語になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「in」は、ここでは〈場所〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「space」は、「空間」という意味の名詞です。冠詞が付いていないのは、抽象的・観念的な空間を意味しているからです。実際の空と湖面に映った空を一体化して意識した上下両方向に広がる幻想上の空を、観念的な空間に見立てています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「だから世界が空間に吊られているように見えた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《an island floating on nothing,》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「island」は、「島」という意味の名詞です。幻想上の巨岩を島に見立てています。&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/122_60e7#kanshi&quot;&gt;不定冠詞「an」が持つ視点の浮遊効果&lt;/a&gt;が、この描写の幻想性を補強しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「floating」は、「浮く」という意味の自動詞「float」の現在分詞で、ここでは直前の名詞「island」を直接修飾しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「on」は、ここでは〈土台〉を示す前置詞です。目的語は不定代名詞「nothing」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると「nothingの上に浮く島」ですから、「宙に浮く島」という感じです。全体としてその前の《suspended in space》を言い換えたもので、やはり《seemed》の補語になっています。「だから世界が空間に吊られているように見えた、つまり世界が宙に浮く島であるかのように見えた」というわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;《anchored to the feet of the man on the cliff.》&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「anchored」は、「錨で固定する」、「繋ぎ止める」という意味の他動詞「anchor」の過去分詞で、ここではその前の名詞《an island》を直接修飾しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「to」は、ここでは〈対象〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「feet」は、「足」という意味の名詞「foot」の複数形です。&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/122_60e7#kanshi&quot;&gt;定冠詞「the」が持つ対象への没入効果&lt;/a&gt;によって、浮遊していた視点が徐々に定位されていきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「of」は、ここでは〈所属〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「man」は、「男」という意味の名詞です。定冠詞「the」によってさらに視点が定位されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「on」は、ここでは〈場所〉を示す前置詞です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「cliff」は、「崖」という意味の名詞です。定冠詞「the」によってさらに視点が定位されます。この最後の《the cliff》で《the man on the cliff》がロークであることが判明し、ロークと幻想上の巨岩との関係が、突如明らかになる仕掛けです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直訳すると、「崖の上の男の両足に繋ぎ止められた（島）」です。男（＝ローク）の足元に崖がある様子を、「崖が男の両足に繋ぎ止められている」と表現しているわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文全体を直訳すると、「だから世界が空間に吊られているように見えた、つまり世界が、崖の上の男の両足に繋ぎ止められた宙に浮く島であるかのように見えた」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;鑑賞者の視点の移行&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この『The Fountainhead』冒頭では、鑑賞者の視点の運動が巧みに計算されています。この第3段落最後の文には、そうした計算の極致を見ることができます。残念ながら英語と日本語では語順が異なるため、原文が持つこの計算された視点運動の効果を、日本語では十分再現できません。ここで私が細かく逐語解説しているのは、一つには、この計算された視点運動をなんとか日本人読者にも追体験して欲しいからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最初の段落から振り返ります。冒頭「ハワード・ロークは笑った」で、鑑賞者の視点はロークの顔がちょうど視野に収まる位置に定位されます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　次の第2段落では、ロークの顔→ロークの全身→巨大な崖と一気に視野が広がり、湖の向こうに（ロークの足元の）巨大な崖を見る位置に鑑賞者の視点が定まります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第3段落では湖面に映る崖と空も視野に入り、実存と鏡像との区別が失われ、巨大な空間に巨大な岩が浮かぶさまを見る幻想的な立場に移行します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして段落最後のこの文で、幻想上の巨岩を世界全体に見立てるというさらに幻想的な立場に移行し、「宙に浮き、足に繋ぎ止められた島」などというさらに幻想的で唐突な比喩が登場したかと思うと、最後の最後で「ロークの足元に世界全体たる巨岩が繋ぎ止めれている」というイメージが浮かび上がります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　冒頭の笑うロークから始まり、ごく短い間に巨大な絶壁、幻想上の巨岩、さらには観念上の世界全体にまで視野が拡大するや、突然、最初に登場したロークの足元に世界全体が繋ぎ止められる像に収束するこの見事ざを、私の解説で味わっていただけるでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;人間と自然の関係の逆転&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://sasaki16.cocolog-nifty.com/gokuiologic_objectivism/2005/11/121_d8e2#ratai&quot;&gt;第2段落第1文の解説&lt;/a&gt;で述べたように、理想の個人たるロークの裸体と自然の象徴たる花崗岩の絶壁は、質感的にもスケール的にも鮮やかなコントラストを成しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「凍結された爆発」とも表現される花崗岩の絶壁と比較して、当初その上に立つロークの裸体はあまりに弱く小さく見えます。絶壁と湖面が織りなす幻想的な情景は、しばし読者にロークの存在を忘れさせます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　幻想上の空間に浮く幻想上の巨岩によって読者は、これらが象徴する自然の背後に、静寂の内に秘められた巨大なエネルギーや、何物にもとらわれない「動中に静あり、静中に動あり」的な自由さや、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉が高水準で統一されたある種の精神力を感取します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自然が持つこうしたエネルギーや自由さやある種の精神力の印象が、巧みな情景描写によって膨らみに膨らんだ果てに、その自然を象徴する幻想上の巨岩が、一個人ロークの足元に繋ぎ止められていたことが明らかになります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これにより、当初巨大でエネルギッシュな自然と比較して弱く小さく見えていたロークが、実は巨大でエネルギッシュな自然を支配する、自然以上に巨大でエネルギッシュな存在であることが判明するのです。これが、私がこれまで繰り返し「どんでん返し」と述べてきた理由です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それだけではありません。幻想上の巨岩をロークが足元に繋ぎ止めるイメージは、読者に幻想上の巨岩とロークを一体化して意識させます。それまで自然のあり方のみを象徴してきたかに見えていた巨岩のあり方が、突然、ロークのあり方をも象徴するものとして意識されるのです。静寂の内に秘められた巨大なエネルギーも、何物にもとらわれない「動中に静あり、静中に動あり」的な自由さも、〈静力〉・〈熱力〉・〈鋭力〉が高水準で統一された精神力も、すべてロークが持つものとして意識されるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この冒頭の3段落は単に主人公ロークの鮮烈な紹介になっているだけでなく、「人間は自然の前では小さな存在に過ぎない」というポピュラーな思想に対する強烈な攻撃になっています。「人間は自然の前では小さな存在に過ぎない」という思想を否定し、個人の可能性の大いさを描くことは、この小説の柱の一つです（&lt;a href=&quot;#note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　単にこうした思想が、個人レベルでその可能性を摘んでいることを指摘しているだけではありません。抑圧的な社会を実現し強化するため、政治的に利用されてもいるという洞察をも示しているのです（&lt;a href=&quot;#note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;）。この小説が「政治思想小説」と呼ばれるゆえんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;試訳&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「&lt;strong&gt;まるで世界が宙に浮く島で、断崖上の男の足元に繋がれているかのようだ。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;第1～第3段落訳まとめ&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　冒頭からここまでの訳をまとめます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《Howard Roark laughed.&lt;br /&gt;
　He stood naked at the edge of a cliff. The lake lay far below him. A frozen explosion of granite burst in flight to the sky over motionless water. The water seemed immovable, the stone -- flowing. The stone had the stillness of one brief moment in battle when thrust meets thrust and the currents are held in a pause more dynamic than motion. The stone glowed, wet with sunrays.&lt;br /&gt;
　The lake below was only a thin steel ring that cut the rocks in half. The rocks went on into the depth, unchanged. They began and ended in the sky. So that the world seemed suspended in space, an island floating on nothing, anchored to the feet of the man on the cliff.》（『The Fountainhead』、Signet Books、p.15）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;ハワード・ロークは笑った。&lt;br /&gt;
　彼は裸で屹立していた。足元の絶壁のはるか真下に、湖が広がっている。巨大な花崗岩の爆発が、湖面から天空へと飛翔して凍結していた。巨岩は静止した湖面を浮遊しているかに見える。巨岩の静止は、推力と推力がぶつかるところに生じる、運動以上にダイナミックな一瞬の静止だった。巨岩は幾筋もの太陽光線に濡らされ、光を放っていた。&lt;br /&gt;
　眼下の湖は岩壁を真っ二つに切断する、細い鋼鉄のリングでしかない。岩壁は同じ姿のまま深みへと伸びていく。岩壁は空から現れ空へと消えている。まるで世界が宙に浮く島で、断崖上の男の足元に繋がれているかのようだ。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第2段落第3文の「花崗岩」は、以後の「巨岩」と同一であることがわかりやすいように「巨大な花崗岩」に変えました。また、「天空へと飛翔して凍結していた」の前に「湖面から」を加えました。第3段落の「岩々」は、湖を囲む岩々であることがわかりやすいように「岩壁」に変えました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;a name=&quot;note1&quot;&gt;※1&lt;/a&gt;　Ayn Rand『The Fountainhead』（Signet Books、p.15　&lt;a href=&quot;http://www.amazon.com/gp/reader/0451191153/ref=sib_dp_pt/105-1427272-0248433#reader-link&quot;&gt;→ページキャプチャをAmazon.comで読む&lt;/a&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note2&quot;&gt;※2&lt;/a&gt;　たとえばこの小説では、大洋上のヨットで二人の登場人物の間に次のような会話が交わされます。最初に原文を示し、次に藤森かよこ氏の訳を示します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《She said:&lt;br /&gt;
　&quot;May I name another vicious bromide you&#39;ve never felt?&quot;&lt;br /&gt;
　&quot;Which one?&quot;&lt;br /&gt;
　&quot;&lt;u&gt;You&#39;ve never felt how small you were when looking at the ocean.&lt;/u&gt;&quot;&lt;br /&gt;
　He laughed. &quot;Never. Nor looking at the planets. Nor at mountain peaks. Nor at the Grand Canyon. Why should I? When I look at the ocean, I feel the greatness of man, I think of man&#39;s magnificent capacity that created this ship to conquer all that senseless space. When I look at the planets, I thing of airplanes.&quot;&lt;br /&gt;
　&quot;Yes. And that particular sense of sacred rapture men say they experience in contemplating nature--I&#39;ve never received it from nature, only from ...&quot; She stopped.&lt;br /&gt;
　&quot;From what?&quot;&lt;br /&gt;
　&quot;Buildings,&quot; she whispered. &quot;Skyscrapers.&quot;》（『The Fountainhead』、Signet Books、p.446、下線引用者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《ドミニクは言う。&lt;br /&gt;
「愛とは赦しとか、憐れみとかいう言葉以外の、あなたが決して同意できないもうひとつの邪悪な決まり文句を言いましょうか？」&lt;br /&gt;
「どういう決まり文句ですか？」&lt;br /&gt;
「&lt;u&gt;大きな海を見ていると人間は自分がいかに小さい存在か感じる、という文句ですわ。&lt;/u&gt;でも、あなたは、そんなこと思ったこともないのではありませんこと？」&lt;br /&gt;
　ワインナンドは大きな声で笑う。「全くないですね。どんな星を見てもそんなことは思いません。グランド・キャニオンを見てもね。なぜ、そんなふうに感じなければいけませんか？　大きな海を見れば、人間の偉大さというものを私は感じます。こんな理不尽なほどの広い空間を征服するような船を創造した人間の素晴らしい能力というものを私は考えます。山脈の峰々を見れば、私はそれを穿つトンネルやダイナマイトのことを思うのです。星を見れば、飛行機のことを思いますしね」&lt;br /&gt;
「わかりますわ。自然について深く考えるとき、人間が経験すると言われるあの特殊な聖なる恍惚感というものを……私は、自然そのものからではなく、唯一……」と、ここまで言ってドミニクは口ごもる。&lt;br /&gt;
「自然ではなくて、何から？」&lt;br /&gt;
「建造物ですわ。超高層ビルです」と、ドミニクは小さな声で答える。》（『水源』、p.639、下線引用者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　上記箇所の少し後からさらに引用します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《&quot;It&#39;s interesting to speculate on the reasons that make men so anxious to debase themselves. &lt;u&gt;As in that idea of feeling small before nature.&lt;/u&gt; It&#39;s not bromide, it&#39;s practically an institution. Have you noticed how self-righteous a man sounds when he tells you about it? Look, he seems to say, I&#39;m so glad to be a pygmy, that&#39;s how virtuous I am. Have you heard with what delight people quote some great celebrity who&#39;s proclaimed that he&#39;s not so great when he looks at Niagara Falls? It&#39;s as if they were smacking their lips in sheer glee that their best is dust before the brute force of an earthquake. As if they were sprawling on all fours, rubbing their foreheads in the mud to the majesty of hurricane. But that&#39;s not the spirit that leashed fire, steam, electricity, that crossed oceans in sailing sloops, that built airplanes and dams ... and skyscrapers. What is it they fear? What is they hate so much, those who love to crawl? And why?&quot;&lt;br /&gt;
　&quot;When I find the answer to that,&quot; she said, &quot;I&#39;ll make my peace with the world.&quot;》（『The Fountainhead』、Signet Books、p.447、下線引用者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《「人間が、やっきとなって自分たちを賤め卑下する理由は何なのか、なにがそうさせるのか、考えるのは興味深いものです。&lt;u&gt;自然の前で自分を小さく感じるという考え方についてもね。&lt;/u&gt;これはただの決まり文句ではありませんからね。それは、ひとつの制度として実際に機能しています。人がそのことを口にするとき、どれほど自分は正しいと思い込んで言っているか、自信いっぱいに言っているか、気づいたことがありますか、あなたは？　そいつは、こう言っているらしいのですな。私は、ピグミーであることが実に嬉しいと。私はピグミーなのだから、だからこそ美徳にあふれているのだ、と言っているらしいのです。あなたは、聞いたことがおありになるかな？　ナイアガラ瀑布を見るとき、自分は偉大ではない、いかに卑小な存在かと宣言する有名人か何かの言葉を。連中ときたら、どれほど嬉々としてナイアガラ瀑布のことを引き合いに出すことか。まったく、連中のしていることといえば、地震のような野蛮な力を前にして、実に嬉しげに舌を鳴らすようなものですよ。ハリケーンの偉大さにひれふして、四つんばいになり、額を泥にこすりつけるような具合だ。一本マストだけのスループ型帆船で大洋を横断することを可能にする火や蒸気や電気を、航空機やダム……それから超高層ビルを作り出す火や蒸気や電気を支配する精神を、連中は持ち合わせていない。連中が恐れているのは何なのか？　連中が、かくも憎んでいるものは何なのか？　恐れ入って、はいつくばるのが大好きなあの連中ときたら、まったく。なぜ、彼らははいつくばるのか？」&lt;br /&gt;
「その答えが見つかれば、私もこの世界と和解できますわ」と、ドミニクは言う。》（『水源』、p.641、下線引用者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a name=&quot;note3&quot;&gt;※3&lt;/a&gt;　たとえば次のような会話が登場します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《&quot;If you learn how to rule one single man&#39;s soul, you can get the rest of mankind. It&#39;s the soul, Peter, the soul. Not whips or swords or fire or guns. That&#39;s why the Caesars, the Attilas, the Napoleons were fools and did not last. We will. The soul, Peter, is that which can&#39;t be ruled. It must be broken. Drive a wedge in, get your fingers on it--and the man is yours. You won&#39;t need a whip--he&#39;ll bring it to you and ask to be whipped. Set him in reverse--and his own mechanism will do you work for you. Use him against himself. 〔中略〕There are many ways. Here&#39;s one. &lt;u&gt;Make man feel small.&lt;/u&gt; Make him feel guilty. Kill his aspiration and his integrity.&quot;》（『The Fountainhead』、Signet Books、p.635、下線引用者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;《君ね、ひとりの人間の魂の支配の仕方を学んだら、全人類を支配できますよ。ピーター、魂です。魂なのです。鞭も剣も銃もいりません。だから、シーザーもアッティラもナポレオンも馬鹿なんだなあ。だから彼らは長続きできなかった。我々は、大丈夫です。ピーター、魂は、本来支配されるようなものではありません。だからこそ、魂こそ破壊されねばならないのです。魂の中に楔を入れるのです、誰かの魂の中に君の指をつっこんでごらん。そうすれば、そいつは君次第です。鞭など持つ必要はありません。君から魂を奪われた人間は、自分から鞭をもってきて、打ってくださいと頼み込みますよ。逆にするのです。そうすれば、その人間は機械的に君のために、君の仕事をしてくれます。つまり、その人間が自分自身に逆らうようにするのです。〔中略〕やり方は、沢山あります。まずは、これだな。&lt;u&gt;自分のことをちっぽけな存在だと感じさせること。&lt;/u&gt;罪の意識を感じさせること、だな。その人間の持っている憧れとか高潔さとか、そういうものを殺すのです。》（『水源』、p.935、下線引用者）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>『水源』冒頭を原文で読む</dc:subject>

<dc:creator>佐々木　一郎</dc:creator>
<dc:date>2006-12-29T08:58:00+09:00</dc:date>
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